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「今だから話せる佐藤のコラム 第49号」(初めての海外生活49)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2021.03.26
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第49号」(初めての海外生活49)をお届けいたします。

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横浜初めて物語と佐藤の中国生活19

               2021年3月24日     佐藤忠幸
 いつの間にか初夏の陽気ですね。早く普通の春に戻って欲しいものです。
 富岡川せせらぎ緑道では、染井吉野まで咲き始め、染井吉野以外の各種桜やアンズは早くも、散り始めました。
富岡商店街の道路は狭いため街路樹は一本もありませんが、富岡でも中心部からちょっと外れた道路には桜をはじめとした各種街路樹が目を楽しませてくれます。
 そして低木ではハナモモ(残雪枝垂れ)、カイドウ、庭桜などで賑やかで、それらの根元にはハ゛イモ(貝母)、ニリンソウ、スノウドロップなどが白い花を可憐に咲かせており、いつまで見ていても飽きません。
これらは数年前も見たはずですが、傍を通ってもすたすたと通り過ぎてしまったのでしょうね。
今の年代で無ければ味わえなかったのかもしれませんが、勿体なかったです。
 22日から色々な自粛が解除されましたがまだまだ平常生活には程遠いようで、街の活気は戻っていません。
産業によっては基に戻るには数年かかるとも言われており将に革命です。
 引き続き自粛しながら頑張ってください。
 今号は「横浜初めて物語」と中国生活で得たエピソードを送らせていただきます。


【日本初の近代街路樹】
 富岡川せせらぎ緑道だけでなく、我が富岡でも郊外の道路ならイチョウや桜の並木道がります。
主要道路に街路樹があるのは当然の日本ですが、昔の日本に街路樹は有りませんでした。
 日本の都会での街路樹の最初は、1867年(慶応3年)、横浜市馬車道沿道に植えられた柳と松です。
人口過密状態となった横浜を、その景観を美しくしようとして植えられたのです。
また、それを受けた馬車道沿いの色々な店が、競って自分の店舗前に、この柳と松を植樹していった為、馬車道の景観はたちまちのうちに美化され、後に日本初のガス灯が点灯されると、街路樹は更に美しく映え、道行く人々の目を楽しませてくれました。
 これ以降、日本の街路樹は欧米諸国の影響を受けて、樹種の選択,植栽手入法の改良などにより,著しい進歩と普及をとげました。
 街路樹に、柳と松が選ばれた理由は、それぞれが環境の変化に強く、育てやすい樹種だったからとされています。
 JR関内駅のそばに、「近代街路樹発祥の地」と刻まれた碑が立っています。
 尚、街路樹は、街道並木や参道並木等の、いわゆる地方並木とは違うものとされ、区別されています。

【日本初のガス灯】
 街路樹横のガス灯は、1872年(明治5年)に横浜市太田町、馬車道、本町通りにかけてこれまた日本で初めて灯されました。
1869年(明治2年)頃、太田町の人々がガス灯の建設を神奈川県に出願しましたが、これを県が受け入れず、翌年の1870年(明治3年)にはドイツ領事であるシュルツが経営するシュルツ・ライス商会が再度ガス灯の建設を出願しました。
しかし、同年設立された「日本社中」という会社がこれに対抗してガス事業を出願しました。
外国の会社と日本の会社の間でガス灯の建設をめぐり、競争が起こったのです。ビジネスの競争とは、当時の日本としては珍しい画期的なことです。
何故か外資に遠慮した県は、居留外人の投票という方法で権利を決定しました。
 勝ったのは「日本社中」で(初めからその作戦?)、同社はフランス人技師のプレグランと契約してガス工場を建設し、1872年(明治5年)に日本初のガス灯がともったという訳です。
ガス灯の柱部は英国グラスゴー市から輸入し、灯具は日本人職人により製造されたと言われています。 
 馬車道の関内ホール前に、[ガス灯発祥の地]碑が建っています。
記念碑の両側には、当時のままに復元されたガス灯が立っているのでご覧ください。


【日本初のガス事業】
 横浜にガス灯を灯すために作られたのが「日本社中」でこれが、日本初のガス会社です。
1870年(明治3年)に県庁からガス灯の建設協力を頼まれた横浜の実業家高島嘉右衛門が「日本社中」を結成しました。
高島は上海でガス灯建設を行っていたフランス人技師アンリ・プレグランを招いて横浜でのガス事業計画を進めました。
ガス工場が完成し、ガス灯へのガス供給に成功したのが1872年(明治5年)で、これが日本初のガス事業です。
高島嘉右衛門のガス工場は、1875年(明治8年)に自治体へ譲渡され「横浜市瓦斯局」となり、現在は「東京ガス」になっています。
 日本社中があった場所は現在の横浜市本町小学校ですが、校門入口には文化財として1本のガス灯が残されており、そばには[日本ガス事業発祥の地]の記念碑があります。

【横浜の父・高島嘉右衛門】
 「日本社中」創業者の高島嘉右衛門(たかしまかえもん)は横浜の歴史の中でも重要な位置を占めていますが全国的にはあまり知られていません。
「高島易断(えきだん)」と「横浜市西区高島町」そして東急東横線の「高島町駅」に名を残した偉人です。
ガス事業を興した他にも、日本初の「横浜―新橋」間の鉄道線路用地埋め立てなどの功績から「横浜の父」といわれることも多く、横浜の近代史の中でも異彩を放っています。
 しかし、彼は大きな成功を収めた実業家でありながら財閥を作らず、政治の世界に進出することもなかったため、全国的知名度がいま一つです。
彼はまた易の専門家として占術を自らの行動の指針とし、親交のあった多くの政治家にも助言したそうです。
 これらが彼にほかの実業家にはない精神性、神秘性を与えているのでしょう。
 こういう人が我が横浜に居たとは、ちょっと誇りに思います。

【上海で大地震に遭遇?】
 今月の新聞は東日本大震災10周年関係の記事満載です。
おかげで当時を想いだし振り返っています。
 2011年当時は上海に居たので揺れは何も感じませんでした。
そのことは先日簡単に記しお見舞い申し上げ、東北の方はじめ多くの方からお礼を兼ねて近況をお知らせいただきました。
皆さん頑張って復興にお努めくださっています。有難う御座います。
 思い返すとその前の1995年の阪神淡路大震災の時もマレーシアで暮らしていたので体感していません。
今考えると、それが良かったのかどうかは疑問です。

 そこで、上海時代に体感した2008年5月12日の四川大地震について触れたいと思います。
四川大地震は私が16年間の中国滞在中、唯一体感した大地震です。
被災者も死亡6万9千名、行方不明1万8千名という大災害です。
そして最も悲惨なことは四川省の片田舎の小中学校が約7千校も倒壊(破損ではなく倒れたのですよ!)し、学校生徒と教員だけで2万名近い犠牲者を出したことです。
 本来なら、住民の避難場所となるべき学校が、民間住宅に先立って倒壊するなどとは信じられません。
業者と役人の癒着による誤魔化しが生んだ「豆腐のおからビル」の悲劇で地震以上に大変な騒動となったことを思い出しました。
地方政府の発表は当初は隠蔽尽くしでしたがあまりにも被害が大きく、世界中からの批判もあって途中からオープンになったようです。
この地震がもし、もっと都会で起こっていたら、もっと海に近い所で起きていたら被災者は一桁も二桁も増えていたでしょう。
 しかし、上海に居た私はほとんど地震に気付かず「あれ揺れたかな?」と一瞬思っただけで、後からテレビニュースを見て大地震だと知って驚いたものです。
当時、世界一高いというビルを含めて高層大ビルがどんどん建てられている上海では避難をめぐって大騒ぎとなっていました。
上海では、幸いにして一般住宅には被害は無かったものの高層ビルは大変揺れたからです。
 後日、中国知人と地震のことを話したら、彼らから「15階以上のビルは大きく揺れたので皆避難したよ」と聞いて唖然としました。
「我がマンションは15階だがどうして揺れが小さかったのか」と不思議に思ったものです。
 後から分かった事ですが、以前報告のごとく実は14階建てのため揺れなかったようです。
 
【一つの街のマンション】
 我がマンションは敷地内に10数棟も建ち通用門も双流路、天山路、哈密路の3つの道路に面して作られていた大マンションと以前報告しましたが、さらにその概要を報告します。
 一番大きな門は、敷地の東側の双流路に面した門です。
門を入るとレンガ造り平屋の大きな長屋が通路をふさぐ様に建てられていました。
というより元々あったその建物に合わせて門を作ったようです。
建物の中心に大きな入り口があり、その左右はマンションの事務所となっています。
左端はコンビニで色々なものを揃えていました。また登録しておけば宅急便が来た時留守ならここで預かってくれるそうです。
私にはここは遠すぎるので登録はしませんでしたが。
事務所の横を通って建物の奥に進むと、驚くなかれ日本流の空手道場でした。
私が行ったときはお休みでしたが中々広くて弟子も多そうな雰囲気です。
 事務棟の裏にこれまた古い建物がありました。
これもレンガ造りのようですが、建物の外壁の装飾が立派で文化財的な建物です。
何に使っているのかと一周したら東端に小さな入り口があり日本語で看板や掲示板があって驚きました。
それは、以前日本で最も有名な学習塾だったからです。
文化財的な建物を小さな教室に分割して学習塾としたわけです。
いくら大きなマンションと言えどもそんなに生徒がいる筈はないと思って日本人教師お呼びして伺ったら、日本人が多く住んでいる古北地区はじめ周辺から多くの日本人生徒が通っているそうで驚きました。
 玄関にある掲示物の多くは生徒に対するもので「靴は脱いだら揃えて置け」等の躾の注意書きでであり、日本以上だなーと感心し、若い教師に「頑張ってねー」と激励してきたものです。
 
 南側の門は天山路という幹線道路に面しています。
しかし、夜間は警備員不在で鍵が閉まっており、自動車も通れない脇の門です。
このマンションの住所は天山路○○番地となっていますが、何故脇の門なのにと思いましたが、おそらく最も主要な道路だから住所表示をそうしたのでしょう。

 西側の門は、哈密(ハミ)路に面しており私の住んだ棟の横です。
正門は東口でしょうが、西口は大きな警備室があって一番立派な門です。
そして駐車場に行くのも便利で自動車利用者の大半はここを利用したようです。
 西側の門から東門までは、歩くには遠いので滅多に行きませんが、各棟が工夫を凝らしてほとんどが異なる外観のため飽きずに歩けました。
東口の各種付帯設備・建物とは別に、歩く途中途中に自治体事務所・集会所や公園・遊具・緑地・花壇・池など色々なものがあって団地というよりも「小さいが一つの街」と感じたものです。
日本の団地とはえらい違いだなーと感心したものです。

 私の部屋から、哈密路および天山路との交差点がよく見えてこの街の変化が手に取るように観察できたものです。
 そして、ここに住んだ8年の間にこの哈密路は激変しましたがそれはまた次の機会に。
 まさに、近代化・激変する上海を体験させていただきました。

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佐藤忠幸
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