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「今だから話せる佐藤のコラム 第48号」(初めての海外生活48)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2021.03.08
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第48号」(初めての海外生活48)をお届けいたします。

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横浜初めて物語と佐藤の中国生活18
               2021年2月25日     佐藤忠幸
 晩春の気候となってほっとしたと思ったら初春の気候に戻ってしまいました。
身体がそれについていくのが大変です。
富岡川せせらぎ緑道も、梅やコブシそして椿と色とりどりで花も戸惑っているようで
す。

 今号は「横浜初めて物語」と中国生活で得たエピソードに加えて街で拾った話題を
送らせていただきます。

【あたらず触らずの係員】
 毎週、地元金沢区経営のプールにリハビリのため通っているのは既報のとおりで
す。
もちろん、プールの中ではマスクは禁止です。
このため、三密が怖いのですが、警備係員は利用者に対して誰も注意しません。
例えば、プール歩きでは向かい合って密接して話し合いながら歩いている人がいま
す。
遊泳プールサイドでは老人が密接してギャーギャー喋って休憩しています。
プールへは泳ぐより井戸端会議を楽しみに通っているようです。
 あまりにも酷いので、ホームページから忠告したら「係員から注意させ、場内放送
でも注意します」との返信が来て、翌週から「会話は控えましょう」、「会話する場
合は最低でも2m以上開けてください」などの注意書きの掲示物が倍増しました。
しかし、係員からの注意や叱責はなく、場内放送もありません。
だから利用者の利用態度は一向に改善されません。
 ある時、あまりにも酷い老婆に掲示板を指さして「あれ見ている?」と言ったら
「大丈夫ここは平気だから」とのお返事で態度は一向に変わりませんでした。
「ここは大丈夫、平気」の意味は「あんな掲示はお飾りで違反しても叱られないよ」
なのだろうかと唖然としました。
その後もホームページから忠告したら、その都度看板が増えましたが係員からの注意
は一切ありません。
これがお役人の姿勢かとガッカリです。

 コロナの問題で、安倍内閣が昨年4月に緊急事態宣言を出しましたが欧米よりかな
り遅れました。
宣言発令をためらったのは、基本的人権をおかすことになり、また国の危機的な財政
事情もあったからのようで、また野党も発令に反対して出遅れました。
緊急事態宣言を出すということは、国民の生活を制限することになり「有事」となり
ます。
欧米は、戦争だけではなく感染症との闘いも有事だと位置づけていますが、日本は敗
戦後「戦争をしない国」となったため法制上「有事」を想定していない国として、戦
後75年間送ってきました。
戦争ではなく「感染症との闘い」という事態でも法律で人権を制限できないのです。
 そのなかで、菅内閣はできる限りのことをやろうとし、罰則規定を設けること、そ
して医療にお金を使う政策を打ち出しました。
罰則規定は野党の反発で行政罰の過料にと緩んでしまいましたがやらないよりはマシ
でしょう。
これによってコロナが終息しオリンピックを無事に迎えられることを祈ります。
 オリンピックと言えば組織委員長の辞任の仕方、後継者の選び方など古い官僚政治
そのままを引きずっており、区営プールと同じだなと感じたものです。

【横浜は写真館開祖の地】
 今は写真といってもほとんどがデジタル写真であり、簡単に撮影出来簡単に現像・
プリントできますが、150年前は撮影も現像も何もかも非常に難しい技術でした。
 それを乗り越えて日本初の商業写真師として功績を残したのが下岡蓮杖です。
 幕末の1859年(安政6年)横浜港が開港し、その翌年1860年にアメリカ人
O.E.フリーマンが横浜に日本で初の写真館を開きました。
そして、その2年後の1862年(文久2年)に下岡蓮杖が、横浜市の野毛ついで弁
天町で日本人として初めての写真館を開業しました。
 それを記念して「日本写真の開祖」という碑が横浜市馬車道の県立歴史博物館前に
建てられていますのでご紹介します。

 下岡蓮杖は1823年(文政6年)伊豆下田生まれ。当初は絵師を志して江戸に出
ました。
ある日、師匠の用事である旗本家に出向くと、オランダ船のもたらした1枚の写真を
見る機会があり、これに驚嘆した蓮杖は以来写真術を学び写真師を目指したのです。
当時は、写真術を学ぶには外国人に教えを乞うしか途はなく、伯父を頼り横須賀の浦
賀奉行の足軽として働いたが目的を達することができませんでした。
諦めて長崎で学ぼうとした矢先に黒船が来航し、日米和親条約で下田が開港すると、
下田で次の機会を狙おうと船で帰省しました。
下田での蓮杖は米国船が薪や水・食料などを買い付けるための市場の足軽として勤
め、写真術を学ぶ機会を窺いました。
長い苦労の末、ここで1856年(安政3年)横浜開港の談判のために来日したハリ
スの通訳から、ようやく写真術の原理や基本概要を学ぶことが出来ました。
 その後再度江戸へ渡り、アメリカ人写真家などから写真術を学び写真機材も得るこ
とに成功しました。
しかし、同業者が増えることを嫌われたためか、薬品の調合や暗室作業の詳細などは
解らないことがたくさんありました。
蓮杖は、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究に没頭し、苦労の末どうにか鮮明な
画像を得るのに成功しました。
そして、蓮杖は1862年(文久2年)やっと40歳で横浜の野毛、ついで弁天町で
写真館を開業しました。
これが日本人による営業写真館の最初(異説あり)であるとされます。
 しかし、当時の日本人は写真を撮影すると寿命が縮まるとして嫌われ、写真という
ものに馴染めず客は外国人が大半でした。
このためかこの店は短期間で閉店に追い込まれました。
やがて時代とともに迷信は消え、蓮杖も苦労の末に横浜市弁天町に再出店します。
その後一旦故郷の下田へ帰りますが、再び横浜に出て馬車道にも店を構え、店舗は次
第に栄えていったそうです。
 良かったですね。
 下岡蓮杖は、長崎の上野彦馬とともに日本の商業写真師の草分けとして知られてい
ますが、そうなるには本当に苦労されたのです。


【中国上海でやや高級マンションに越す】
 2008年頃から、中国経営コンサル業務が軌道に乗り来客が増えたためリビング
の広い部屋を探しました。
リビングというよりも事務所兼応接室というわけです。
 不動産屋は、前と同じ女性コンサルタントにお願いして紹介していただきました。
 決めたマンションは、2005年から暮らした地下鉄の威寧(ウイニン)路駅の隣
駅の北新経(ベイシンジー:経の文字は中国語ではイトヘンではなくサンズイヘン)
駅に近いところで、哈密(ハミ)路に面した1504号室です。
 2LDKで89㎡もありながら当時の上海としては4500人民元とべらぼうに格
安な家賃でした。
このマンションは敷地内に10数棟も建っており通用門も双流路、天山路、哈密路の
3つの道路に面して作られていたほどです。
このマンションが建つ前は、おそらく低層の公営住宅だったと思います。
大家さんは元々この公営住宅に、大家さん一家と両親との2所帯が住んでいました
が、マンション群が建つため立ち退かされました。
立ち退きの代償としてほぼ同様な部屋を2戸もらって親子が別々に暮らしていたそう
です。
上海市内で、新築高級マンションを2戸も持つなんて、一挙に資産家となったわけで
すね。
 しかし、娘一家が仕事の関係で引っ越すためその一戸を貸そうとし、貸すなら早い
方が良いと格安にしてくれました。
しかも日本人なら短期居住でしかも綺麗に使ってくれるし、領収書も要らないとのこ
とで、家賃を安くする条件の全てが揃っていたのは、以前のマンションと同じです。
このため、毎年契約更新の度に値上げされ2014年には6500人民元にまで上が
りました。
しかし、周辺の相場から見ればまだ安いですよ。

 テレビ用の衛星パラボラアンテナは、業者に依頼し取り外しと移設をしてもらいま
した。
しかし、新しいマンションのエレベーター前に「衛星パラボラアンテナを付けること
を禁ず」と書かれていたので驚きました。
その業者は「大丈夫だよ、他の部屋もアンテナを付けているよ」とのことで15階へ
運びあげました。
ベランダを見たらガラス戸があって取り付け難そうだなーと思ったら、業者曰く「こ
こは最上階だから、管理人に言って屋上に付けよう」とのこと。大丈夫かなーと心配
しましたが難なく屋上への出口の鍵を借りてきてくれ無事に取り付けられました。
 あの「衛星パラボラアンテナ取り付け禁止」の掲示は何だったのだろうか。
 お飾りかなー、日本のプールの「やたら禁止」の掲示板と同じかなー。

【8年間も暮らした上海マンション】
 パラボラアンテナを屋上に付けたため、前のマンション時代よりもテレビの映りが
よくなったような気がしました。
もっとも、高級マンションですからテレビが高級になったということもあったでしょ
うが。
パラボラアンテナで映すのは日本のNHK第一・第二そして衛星放送です。NHK受信料を
支払わなくての受信ですので気が引けます。

 こうして、2008年5月からこのマンションに暮らし始めました。
思い返すとこのマンションには8年間も住み、中国生活で最長の住宅です。
快適に暮らすには充分な家具調度品が必要ですが、要求したものは全てそろえてくれ
ました。
大家さんとしては、私が初めての借主ですので丁寧に扱ってくれたのでしょう。
リビングでは、TV(中国の放送や無線放送は全て無料で見放題)とDVDプレーヤー、
応接セット、ダイニングセット、事務机と椅子・電気スタンド・LAN配線、靴箱、ウ
オーターサーバー、掃除機、書棚。
台所には、冷蔵庫、電子レンジ、オーブントースター、電気炊飯器、炊事道具、食器
3人前。
寝室には、ベッドやタンスはもちろん、電気スタンド、ベッドサイドテーブル4、寝
具二式。
そして各部屋エアコン付き。ガラス戸付きのベランダには物干し道具と全自動洗濯
機。
風呂場はシャワーしかなかったので木製風呂桶を入れてくれました。
もちろん、ほとんどは大家さん一家が使っていたものですが一部は新たに購入してく
れました。
ただ、エアコン以外の電化製品は全て中国製か韓国製なのが残念に思ったものです。
自分で買ったのは、落語を聴くためのカセットデッキと業務用の書棚ぐらいでしょ
う。

 このマンションに暮らし始めて最初に不思議に思ったのがエレベーターのフロア表
示です。
私の居室は1504室すなわち15階の4号室です。
エレベーターも15階(中国では楼と表す)と表示されています。
停止ボタンは1階から15階まで2列に並んでいます。
15階建てですから奇数のはずで、15階ボタンは1段上の左にあるはずですが左右
同じボタン数です。
すなわちボタン数が偶数というわけです。
よく観察したら14階のボタンが無く、13階の次は15階です。
私が住んだのは15階という表示ですが実は14階だったという訳です。

 中国人の仲間に、なぜ14階が無いのか聞いたところ、14は不吉な数字だそうで
す。
中国語では14(十四)は、十死や実死に通じ、また?四 (?は 1 の意) が要死 (死
を望む、死ね) や夭死 (若くして死ぬ) に通じるため、忌み数(不吉)な数字とされ
ているそうです。
同じような忌み数に13もありますが欧米人ほどには感じないそうです。
また、4は日本と同じく「死」に通じる数字ですが、この一文字だけだと余り気にし
ないようです。

 ということで、いよいよ本格的な上海生活が始まりました。

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佐藤忠幸/Sato Tadayuki 
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