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「今だから話せる佐藤のコラム 第47号」(初めての海外生活47)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2021.02.07
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第47号」(初めての海外生活47)をお届けいたします。

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横浜初めて物語と佐藤の中国生活17
                        1月24日     佐藤忠幸
 大寒も過ぎて日々に過ごしやすくなったと思ったらとんでもない。寒いですねー。
幸いにしてここ富岡は雪が降らないのですが、全国的に雪とか、充分にご注意の上お過ごしください。
富岡川せせらぎ緑道では、クロガネモチの木が赤い実を付け根元には水仙が元気です。

 今号は「横浜初めて物語」と中国生活で得たエピソードを送らせていただきます。

【横浜で日本初の税関と外国貿易】
 横浜開港にともない、関税と外交事務を扱う「神奈川運上所」という役所が、1859年(安政6年)に生まれました。
火事に遭ったり様々な移転・移管を繰返したりして1866年(明治元年)明治政府に移管され、1872年(明治5年)横浜税関に改められました。
これが日本初の税関です。横浜税関はクイーン塔の愛称を持つ建物です。

 運上所とは、簡単に言うと物の出入りを管理する機関です。
外交事務や関税を取り仕切るだけではなく、幕府の外務その他港の行政・刑事、更には船の製造や修理の監督まで行う総合的な役所でした。
因みに「運上」というのは現在で言う税金の事です。
設置場所は現在の神奈川県庁所在地で、当時は運上所を境に西側が日本人居住地、東側が外国人居留地でした。
ここで幕末の商人達は、諸外国を相手に行う色々な取引や物品の検査を受けたりしていた訳です。
各国と通商条約を結んだ日本は、1859年(安政6年)に横浜・長崎・函館を開港しました。
 戸数わずか50ほどの寒村だった横浜に突然降ってわいたように港が作られ、多くの外国商人が横浜にやって来ましたが、彼らが求めたものの大部分が生糸でした。
勿論、当時の生糸生産第一は中国でしたが、高品質の生糸を求めてきたのです。
そして生糸が高値で売れることが分かると日本各地の商人が横浜に生糸を持ち込むようになりました。
外貨獲得をめざす明治政府の生糸輸出奨励策とあいまって各地で生糸の生産が爆発的 に増大し、横浜は輸出ブームに沸きました。
 生糸商人が店舗を構え、外国人もやってきて、横浜では新しい事業が次々と展開されました。
町や港が整備され、郵便が事業化され、銀行が作られ、横浜の顔となった赤レンガ倉庫が作られ、生糸貿易を核に横浜は一大貿易都市へと発展を続けたのです。
こうして、亀屋・原善三郎(三渓園創始者)、野沢屋・茂木惣兵衛(子孫は自民党代議士)など生糸で財を成す商人が台頭しました。

 横浜港からの生糸輸出は日本からの輸出量の99%以上を占めていました。
当時の日本は現代と違って輸出商品は殆どありませんから、生糸輸出港の横浜は極めて重要な位置を占めていました。
日本の他の、港の大半が輸入中心だったのとはえらい違いです。
 生糸を金貨に変えた横浜開港とも言われ、輸出ブームに沸く横浜開港場と生糸商人です。
明治開港以来百数十年、日本経済を支えてきた生糸輸出にまつわる横浜の近代化と近代建築の遺産が多いのもうなずけます。

【横浜開港場と絹の道】 
 横浜が生糸輸出の中心であり得たのは地の利だと思います。
幕末まで、生糸取引の中心は京都・西陣でしたが輸出が始まったらそれが横浜に移りました。
そして、多摩地区には早くから生糸商人が多数存在し、特に八王子の商人集団は大きな勢力を誇っていました。
産地に出て生糸を買い付け、それらを京都・西陣へ運んでいたのを、横浜が開港し輸出が始まると横浜へ運ぶ中心になったのが、生産者と強い関係を築いてきた八王子の商人です。
 幕末から明治にかけて、日本の養蚕地帯としては大きく次の三地域が挙げられます。
 ①福島を中心とした東北、
 ②上州、上信越、埼玉、
 ③長野県南・山梨など
 産地から生糸を江戸・横浜に運ぶルートはいくつかあります。
東北・北関東からは荷駄による陸送の他に、鬼怒川、利根川、江戸川を水運で運ぶルートが日数も早く安価なことからよく利用されました。
これを「水上のシルクロード」と呼んでいます。
上州・信州・武蔵を中心とした北関東・北信地方からは、利根川-江戸川と経由して日本橋まで運ぶルートがメインですが、明治5年には陸運会社が設置され人馬でも生糸を運びました。
飛騨・美濃からは、甲州街道に沿って松本や塩尻、あるいは木曽から岡谷-甲府を経由して八王子-江戸・横浜へ集まりました。
 これらのルートの最終区間、東京-横浜は、1870年(明治3年)に横須賀製鉄所で建造した外輪型の蒸気船の弘明丸が就航し、1872年(明治5年)には蒸気機関車が開通しました。
 当時「桑都」と呼ばれた八王子に集まった生糸はここから片倉、鑓水峠、田端、原町田、長津田などを経て横浜にいたるルート(現在の国道16号)で運ばれました。
この全長約35kmの道は、中国と西アジア・地中海沿岸地方を結ぶ古代の通商路であるシルクロードにちなんで、日本のシルクロードと呼ばれていました。
そして、1908年(明治41年)には、東神奈川-八王子間の横浜鉄道が開通しています。
何でこの郊外に古くから鉄道が通っていたのかと不思議に思ったものですが、当時の日本の鉄道整備は、生糸輸送を目的に行われたのですね。

 2014年、富岡製糸場がユネスコの世界文化遺産として登録されましたが、その時に同時に世界文化遺産に登録されたのが「シルクロード:長安=天山回廊の交易路網」です。
その富岡製糸場を支えたのが「横浜港と日本のシルクロード」であることを覚えていて欲しいものですね。


【中国の住宅事情:再び上海古北地区へ】
 私は中国生活16年弱の間に住居を8回変えましたが、今号は2003年から住んだ上海市の古北(グウベイ)地区で暮らした社宅としてのマンション生活を紹介します。

 古北地区は、元上海領事館が有った地区で日本人街です。
どうして日本人街となったのか調べたら、戦後に上海各地を追われた日本人が当時の郊外だったここに日本領事館を移転させ日本人もここに強制移動させられた名残ということです。
2003年当時は、高給取りの日本人が住む高級住宅街に様変わりしていました。
街が出来たいきさつから考えると激変といえます。
 先輩のマンションに一カ月程同居の後、自分が住むマンションを近くに探しました。
何故「近く」なのかというと毎日の通勤送迎自動車の関係です。
 契約したのは94㎡で2LK+D(食堂)という広いマンションで6,500人民元/月でした。
当時の為替レートは1元=15~16円の為日本円では約10万円です。 
中国としてはべら棒に高い住宅ですが、急激に発展し人口も急増している上海の、それも日本人居住地の中心部としては格安なマンションで皆に驚かれました。
どうやら古北地区としては古いためということと、オーナーが香港人で家賃の高低よりも空き家期間を少なくしろとの命が窓口担当者に出されていたことがラッキーでした。
 「2LK+D」という広いマンションでしたが、単身赴任でしたので、実質的に2室しか使いませんでした。
一日の大半はLK(リビング・キッチン)で過ごしました。
もちろん食事もここで済ませ食堂(ダイニング)は勤務先日本人幹部研修の会場として月一回ほど利用しただけです。
2つある寝室にはそれぞれにバストイレも付いていますが、一室は物置でしか使いません。
勿体ない使い方ですが、当時の古北地区には1ルームマンションは有りませんでした。
金持ちの、それも会社持ちの日本人相手ではそれは不要だと思われていたのでしょう。
 
 朝夕の通勤は、マイクロバスによる送迎付きです。
集合場所は近くの日系コンビニ前でした。
そこは色々な会社が集合場所として利用しており朝夕色々なマイクロバスが集まりました。
バスを降りるとそこはコンビニですから弁当やその他買物して帰るということで極めて便利です。
その集合場所に昼間行くと日本人奥様が集まっていました。
日本人奥様向けの各種サークルに通うためです。
当時の外人は共稼ぎの居留許可が下りないため、昼間は奥様同士のお付き合いが多くなるという訳です。
 私の休日には近くの大型スーパーや理髪店に出かけるなど極めて住みやすい街でした。
 
 唯一の欠陥は、マンション近くにバスも地下鉄も通ってないということです。
上海人にそれを言ったら「古北に住むような人は、そんな下々の人が乗るような乗り物は使わないよ。お迎えがあるかマイカー通勤でしょ。」でした。
なお、その10年後ぐらいに近くに地下鉄がやっと通りました。

【中国でマンションを初めて自分で契約】
 2005年からは自営(コンサルタント)として独立したため、自分でマンションを探し、自分で契約しました。
 当然通勤のための送迎車はありません。もっとも通勤そのものがなくなりました。
しかし、どこかへ外出する為には公共乗り物を利用したいので、交通の便が良くて格安のマンションを探しました。
古北のマンションも自分で探したのですが、日系の不動産会社に頼み会社名義で契約したので自分で探したという感じは持っていません。

 格安マンションを探す為に日系不動産会社に頼むには気が引け、そうかといって街の不動産屋に直接頼むには怖いので不動産事情に明るく、日本語が出来る中国人がどうしても必要です。
幸いなことに知り合いの女性会計コンサルタントがマンションをいくつか持っており不動産事情にも明るいのでお世話をお願いしました。
早速、彼女の知り合いの不動産屋を2軒紹介いただき、物件を紹介いただきました。
おかげで、物件も直ぐに見つかり、契約にあたっては保証人にもなっていただき感謝・感謝です。
日本と同じで個人契約だと保証人が必要だからです。
 決めた物件は、古北地区の北部数キロの天山路/双流路に面した地下鉄の威寧(ウイニン)路駅に近い10階建てマンションの6階です。
部屋は、1LDK61㎡と一人住まいとしては丁度良い広さです。
家賃は3,000人民元と前に暮らしたマンションの半額ですみました。
相場は4,000~5,000人民元ですので、どうして安いのか探ったら、
 ①空室を早く解消したい、
 ②個人契約で領収書無しでよい・・・大家さんの所得隠し。
 ③外人用マンションではない、
 ④日本人なら綺麗に使ってくれるだろう、
という四条件にピッタリ合っていたということです。

 買い物や外食は地下鉄駅前に幾らでもあり床屋やマッサージ店はマンションの周りにいくらでもあり、極めて便利でした。
ただし、床屋もマッサージ店も危険な裏の商売をやっているところがあるので気を付ける必要があります。

 外人専用でないマンションの欠陥は衛星放送を見られない、すなわち日本のTV放送を見られないということです。
このため、入居して直ぐに衛星TV用のパラボラアンテナ(直径約1,2m)を買ってベランダに取り付けてもらいました。
費用は3,900人民元(約6万円)で済みました。
これで日本のTV放送は、受信料ゼロで見放題ですよ。困ったものですね。
もっとも2011年に日本のTV放送が全てデジタル化されて見られなくなり、以降はインターネット放送のみとなりました。

 アンテナ工事をしているベランダから下を見たら、隣の旧いアパートを壊していました。
何にするのかと思ったら、数カ月後バスターミナルに生まれ変わりました。
すなわち都心部へのバスの発着所となった訳で、極めて便利な所となった訳です。
これではアパート代が上るだろうなと心配となったものです。

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佐藤忠幸/Sato Tadayuki 
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