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「今だから話せる佐藤のコラム 第46号」(初めての海外生活46)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2020.12.27
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第46号」(初めての海外生活46)をお届けいたします。

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横浜初めて物語
                      12月24日     佐藤忠幸
 メリークリスマス!
今年も残り僅かになりましたが、皆さんの本年は如何でしたか?
佳かった人は来年も引き続き、悪かった人は来年こそ佳き年となるようにと祈念いたします。

 私は、相変わらず膠原病・多発性筋炎の一進一退が続いていますが諦めず回復に努めております。
リハビリとしては、プール歩きと太極拳愛好会、そしてリハビリセンターへ通うことなどを続け、トイレ掃除など家事にも少しずつ努めております。
色々な症状が出ますが医師に聞いても、膠原病のせいなのか治療薬ステロイドの副作用なのか分からず、毎回診察の度に薬の量をどうするか悩んでいるようです。
医師にいつ治るのかと聞いても悲観的な答えしか聞けませんが、自分としては来年こそ以前の生活を取り戻すぞと希望をもって頑張っております。

 富岡川せせらぎ緑道では、取り残されたミカンやユズ、夏ミカンなどの柑橘類が目立ち、その足下には真っ赤なナンテンが実り、根元には可憐な水仙が目を和ませてくれます。
 我が家の柑橘類は、ミカンの全て収穫し食べ終わっていますが、少し取り残していたユズはつい先日リスに食い散らされてしまいました。
リスがミカンでなくユズを?!と驚きましたがよほど食物に困っているのでしょうね。
しかし、最近ご近所のあちらこちらから「良かったら食べてください」と沢山のミカンをいただきました。
何処のご家庭も酸っぱい自家製のミカンを食べる人がいないそうです。
考えてみると我が家でも、自家製ミカンを食べるのは私だけ、私が小さい頃には考えられないことです。

 お店にあるミカン箱に「三ケ日ミカン」の印刷を見て思い出しましたが、中学生の頃、年末になると兄貴と一緒に自転車で三ケ日にミカンの買い出しに行ったものです。
私の生まれ育った家は愛知県の豊橋市です。
今でこそ豊橋周辺もミカンの産地として知られています(?)が、昔は、ミカンはやはり三ケ日でなければと言われていたものです。
豊橋市は愛知県の南東部にあり静岡県の三ケ日とは距離的には近いのですが、豊橋市がある三河国(三州)と三ケ日がある遠江国(遠州)は、東海道の要衝であり間に関所が有ったぐらいですからどのルートも峠を越えなければならず、自転車では、しかも重いミカン箱を積んではきつかったと記憶しております。

 今号の「横浜初めて物語」は、来年2月からの大河ドラマで取り上げられる「渋沢栄一」に因んで明治維新期の日本を見たいと思います。
なお、いつもの「中国生活で得たエピソード」は見送らせていただきます。


【日本の近代工学の源泉.小栗上野介】
 渋沢栄一の話題に入る前に、前号に取り上げた小栗上野介についてもう少し触れさせていただきます。
小栗上野介は、1860年の遣米使節団の交渉の中心となり、交渉終了後さらに2隻の船を乗り継いで地球一周して大いに学び1年後に帰国し、その後8年間幕政をささえ日本の近代化を押し進めたのです。
 従来、日本の工業の原動力は人力・牛馬・水車までしたが、彼が作った横須賀製鉄所ははじめから蒸気機関を原動力としており「蒸気機関を原動力とする日本最初の総合工場」で、まさに日本の産業革命の地です。
司馬遼太郎が「日本の近代工学のいっさいの源泉」(「三浦半島記」)と書いたのは、このことを指します。
 ワシントンで見た海軍造船所では造船のほかに大砲、ライフル、砲弾、弾丸が次々に作られていました。
すべて蒸気機関の力で簡単に操作される様子を見て、日本の近代化はここから始まるという確信が、工業国日本の基礎作りだったと思います。
なお、小栗上野介が作った横須賀製鉄所は、船だけ造る造船所ではないので「製鉄所」と命名されました。 
 しかし、引退後の1868(慶応4/明治元)年、明治新政府軍によって取調べもなく高崎にて家臣や一族と共に斬首されてしまいました。上野介41歳のことです。
更に、小栗が江戸から運んであった家財をすべて没収し、競売に付して売上げを軍資金として持ち去り、明治政府が行った「強盗殺人」と言える行為を犯してしまいました。
このため明治政府が始めた学校教育では小栗上野介の日本近代化の業績を隠し、逆賊視して無視抹殺してきました。この事が、小栗上野介が知られていない理由の様です。
 前島密が維新後の江戸遷都を推薦した理由に、江戸であれば横浜港が使えて蝦夷や世界の窓口に近いこと、そして横須賀の製鉄所に近いことが挙げられている程です。
 明治新政府が、上野介を再雇用し重用していたら日本の近代化はもっと早く進んだのではと惜しまれます。

【横浜焼き討ちをはかった渋沢栄一】
 来年の大河ドラマは「青天を衝け(つけ)」。
「日本資本主義の父」とも云われる「渋沢栄一」を主人公にした物語です。
渋沢栄一は新一万円札の肖像にもなり注目されていますが、小栗上野介とほぼ同時期の幕末に青年期を過ごし、横浜とも非常に強い縁があります。
 しかし、小栗上野介と違うのは、小栗が幕府の中心となって活躍したのに対して、渋沢英一の青年期は尊王攘夷論を学び本気で幕府を倒そうとしていたことです。
 渋沢栄一は埼玉県深谷市にて1840年(天保11年)に生まれています。
 彼が少年期に通った私塾の師も尊王攘夷論を説いており、若い栄一たちもそれに感銘を受けました。
本気で社会を変えたいと思い立った栄一たちは、師や、親しい者たちと密かに「高崎城(群馬県)を乗っ取り、そこから鎌倉街道を下って味方を集めながら横浜へ攻め上り、居留地を焼き払って異国人を斬り殺す!」との計画をたてました。
栄一たちは、その準備のために江戸へ出て、武器や同志も集め、故郷に帰ってからも計画を進めていました。
 しかし、決行直前に暫く京に居た師が、その計画を無謀だと大反対しました。
師は京にいる間、攘夷派の先導者たちが次々と追い込まれていく様子を直に見て、その実感からの反対でした。大議論の結果、計画は中止となりました。
 晩年になって栄一は横浜焼き討ち反対をしてくれた師に感謝をしています。
 
 だが、この計画のために活動しているうちに、栄一たちは幕府の役人から目をつけられ、身の危険が迫る事態になってしまいました。
1863年(文久3年)偶然知り合った一橋徳川家の重臣を頼って京へ行き、そのまま一橋家の家来となって身を隠すはめとなりました。
 一橋家当主である慶喜は、1866年(慶応2年)江戸幕府最後の将軍となってしまい、かつて討とうとした幕府に仕える身となったのです。
 渋沢栄一は徳川慶喜からも重用され、1867年(慶応3年)フランスのパリ万国博へ派遣され栄一の運命が大変化をきたしました。
かつて過激な尊王攘夷論者であった栄一が警護役として適切だということと、算数に明るく、理財の念に富んでおり、その有能な実業家的手腕も期待されたのです。
渋沢栄一は、万博に関する使命を果たすかたわら、1年半ほどのパリ滞在中に、経済の仕組みや会社組織の実際、銀行の仕組みなどを調査・研究しました。
それらが、後に近代的企業の設立、租税制度や貨幣制度等の改正・改革へと繋がっており、小栗上野介の渡米経験と同じく渡欧経験が栄一に大きな影響を与えたのです。
 しかし、渡欧中の1868年(明治元年)大政奉還・明治維新によりフランスより帰国せざるを得なかったのは惜しまれます。
 維新後新政府に請われ大蔵官僚となり、小栗上野介の偉業を継ぎ、さらに発展させ、後に実業界に転じて更に活躍したことはご承知の通りです。

【渋沢栄一の横浜との関わり】
渋沢栄一は深谷市出身ですが横浜市とも深い関係があります。

 第一に、栄一の青年期には横浜焼き討うちを企てたことです。
まあ、これは決行直前に断念したことは前記の通りです。
 
 第二に、横浜に各種企業や団体の設立に尽力したことです。
栄一の業績として一番知られているのは「日本で最初に銀行を作った人」で、さらに多数の企業の育成に係わり、同時に多数の社会公共事業や民間外交にも尽力し「日本資本主義の父」とも呼ばれています。
その中で「横浜」のついた企業や団体名は27もあります。
 栄一が発起人と創立委員となった「横浜船渠会社(横浜船渠株式会社)」で建造した客船の「氷川丸」は現在も横浜山下公園に歴史遺産として繋がれています。
横浜船渠会社が残したドックの一分は「日本丸メモリアルパーク」となり、氷川丸と併せて横浜港のシンボルともいえます。
 港街として発展してきた横浜の歴史と経済も、渋沢栄一なしに語ることはできないのです。
 若かりし頃は焼き討ちにしようと考えていた横浜に、自分がここまで名を残したことをどう思ったのでしょうか?
 
 第三に日米人形の交流(横浜人形)に尽力したことです。
 渋沢栄一は、民間外交にも積極的に取り組み、さまざまな国の人々と交流しています。
当時の日本とアメリカは政治的な緊張関係にあり、険悪な空気が深まっていました。
そんな中の1927(昭和2)年1月。アメリカから横浜や神戸などの港へ、合わせて1万体以上もの人形たちが送られてきました。
人形たちは、当時流行していた童謡になぞらえて「青い目の人形」と呼ばれ、各地で式典も開かれ大歓迎されました。
送られた人形のお返しに、日本からは「答礼人形」として着物を着た日本人形が送られました。
 このアメリカと日本の交流を日本で呼びかけたのが、渋沢栄一です。
だが栄一の死から10年後、1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、これらの人形は敵国のものとして多くが処分されてしまったのは残念なことです。
 そんな苦難をくぐり抜け、現代まで残った人形は「横浜人形の家」で常設展示されています。
館の入り口近くには「青い目の人形像」があります。
 
 第四に孫の渋沢敬三の研究が横浜に残されています。
 実業家で民俗学者の渋沢敬三が生涯をかけて没頭した民俗学の研究が、横浜市の「神奈川大学」の「日本常民文化研究所」に受け継がれています。
敬三は、本当は自然科学方面へ進みたかったようですが、父が家督相続出来ない事情から祖父の栄一から懇願され実業界に進み活躍し、大蔵大臣にまで上り詰めました。
 戦後追放されて地位も財産も失いましたが、本来やりたかった学問を究め「財団法人日本常民文化研究所」を中心に若手学者を育てました。
 敬三が亡くなった後研究所は解散しましたが神奈川大学がそれを引き継いで今に残してくれています。
 まあ、詳しくは別の機会に。
 

 攘夷に燃え横浜の外国人を討って国を変えようとした農家の青年は、やがて横浜から外国へ旅立って多くのことを見聞して、積極的な開港で国を変える姿勢に変わりました。
実業家となってからは更に外国と日本の親交に力を尽くすようになりました。
 渋沢栄一が没する91歳までに、横浜から欧米に出航したのは実に5回にも及びます。
 幕末の徳川幕府は、渋沢栄一そして小栗上野介の登用・活用そして、福沢諭吉なども含めて若手を積極的に欧米に学ばせています。
 日本の先進国へ向かう覇気を感じます。
 尊王攘夷を合言葉に作られた維新政府も維新後は180度方向転換し、岩倉具視を団長として多数の幹部を欧米視察団として派遣し、世界の中の日本の位置を開眼しています。
 渋沢栄一や小栗上野介らが当時、欧米に学んでいなかったら、日本が東南アジアNO.1の国となるなど夢のまた夢。
 今の日本はあり得ないと思います。

 このコラムも今年最後となりました。
今年はもう少しすっきりとした短文にしようと思っていましたが相変わらず長文でしかも駄文で申し訳ありません。
 来年こそ改善すべく工夫・努力いたします。
 では、よいお年をお迎えください。

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