メールマガジン

「今だから話せる佐藤のコラム 第45号」(初めての海外生活45)

┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2020.12.08
┣━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第45号」(初めての海外生活45)をお届けいたします。

==========================================================================

横浜初めて物語と佐藤の中国生活15
                       11月24日     佐藤忠幸
 もうじき12月だというのに初秋の陽気ですねー。と昨日書いておいたのですが今日になったら寒いです。
難しい季節ですね。
30数年前に新潟県魚沼市小出町へ転勤して引っ越したときには、数十年ぶりの大雪とかで11月から屋根の雪降しと家周りの雪かきで大変な思いをしたことを思い出しました。
 富岡川せせらぎ緑道では、イチョウやモミジも色づき完全に初冬の景色となりました。
そういう中で、真っ白や紅色のサザンカ(山茶花)がお見事です。
漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来しています。
しかし、山茶花が何故「サザンカ」と読むようになったのか不思議に思って調べたら、やはり、本来は「サンザカ」と読んでいたのが長い間になまって現在の読みになったとのことです。

 ところで、アメリカ大統領選挙の騒動は目を覆わんばかりです。アメリカは元々好きな国ではありませんでしたが、幕末から明治維新時、第二次世界大戦敗戦後の日本への対応には尊敬し、感謝しておりましたが、それも薄れてしまいそうです。
 今号はアメリカと横浜に因んだ話題と中国生活で得たエピソードを送らせて頂きます。

【江戸時代からアメリカに学んだ日本】
 先々週、野口英世記念館がある近くの金沢区長浜ホールで「野口英世伝」という講談を聴いてきました。
久しぶりの講談で難しい話を面白可笑しく聴かせて貰いました。
野口英世が横浜市金沢区の長浜検疫所で活躍した後、横浜からアメリカへ渡りそこで彼の本領を発揮したことを再確認できました。
彼は1900(明治33)年に横浜港から渡米し、大学やロックフェラー医学研究所で学習と研究を続け1914(大正3)年と1915年、1918年の3回もノーベル賞候補となった偉人です。
100年も前にノーベル賞候補それも3回なんて当時の日本人では考えられないことです。
これもアメリカで学んだからだと思います。

 江戸時代末期においては、学者だけでなく役人もアメリカに学び、アメリカに対抗したことで、アジアで唯一植民的支配から免れた国となったのだと思います。
 1853(嘉永6)年にペリーが横須賀に来航するまでに、記録に残っているアメリカとの交流は次の通りと多彩です。
・1791(寛政3)年.商人が2隻の船とともに紀伊大島に上陸。日本を訪れた最初のアメリカ人。
・1797(寛政9)年.アメリカ船がオランダ国旗を掲げ、オランダ船として長崎出島での貿易を行う。
・1809(文化6)年までに、上記は13回もの来航が記録されている。
・1830(天保元)年.小笠原諸島の父島に上陸。
・1837(天保8)年.商人が商船モリソン号で日本人漂流民を送り届けるため横須賀浦賀に渡航。
・1845(弘化2)年.捕鯨船が22人の日本人漂流民を救助し浦賀へ入港し、浦賀奉行と対面。
・1846(弘化3)年.アメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが2隻の軍艦を率いて浦賀に渡航し通商を求めるも拒否される。米軍艦の初の日本寄港。
・1846(弘化3)年.捕鯨船の乗員、択捉島に漂着。
・1848(嘉永元)年.捕鯨船の乗員、西蝦夷地に漂着。長崎に護送される。
・1848(嘉永元)年.ラナルド・マクドナルド、日本人に英語を教えようと、自らの意志で密入国。
・1849(嘉永2)年.アメリカ軍艦が長崎に渡航し、漂着した船員とマクドナルドを受け取り退去する。
 当時のアメリカは日本を捕鯨船の休憩と補給のための基地候補としか見てなかったようです。

【日米修好通商条約の締結】
 私の住む横浜市金沢区のお隣、横須賀市は日本が近代工業への歩みを記す最初の地です。
江戸幕府は、ペリー来航がきっかけとなり、自分達の力で日本を守る必要性を考え、海軍力を増強させ、軍艦を造るための造船所を建設し、オランダにも軍艦を発注、江戸湾警備増強の為台場を造営開始しました。
そして、2年前に帰国していたジョン万次郎を教師としてアメリカの実情を学ぶなどしてペリー来航並びに再来に備えていました。
これらのことから植民地になることは避けられましたが、反幕府側の「尊王攘夷」運動のきっかけを作ったといえます。
なお、「泰平の 眠りをさますじょうきせん たった四はいで 夜も寝られず」と詠われており、国を挙げて驚き、恐れ入ったように思われていますが、本当はアメリカの先進技術に驚き酔いしれていた雰囲気の方が強かったようです。
・1853(嘉永6)年. ペリーが東インド艦隊を率いて日本の開国と通商関係を結び、捕鯨船が立寄り燃料や食料の補給が出来ることを目指して来航。将軍危篤状態の為交渉は1年延期。
・1854(嘉永7)年.ペリー再来.日米和親条約締結。
・1858(安政5)年.日米修好通商条約締結。批准書の交換はワシントンで行うとした。
・1859(安政6)年.イギリス・フランス・ロシア・オランダと、それぞれ同内容の条約を締結。
・1859(安政6)年.横浜港を開港し、神奈川奉行所を設置する。
ペリー一行は日本政府や国民の紳士的な態度をみて彼らも日本を極めて紳士的に遇し、砲撃など絶対にせず、条約締結の祝砲も事前に通告し、日本の許可を得た上で撃っています。
また軍艦の見学希望者は絶えなかった程ですが、アメリカ側はその都度ご馳走をして歓待してくれました。
その時に日本人の多くがご馳走の残りを包んで持ち帰ったのに驚いたり感心したりしたと記録されています。

・1860(万延元)年.日米修好通商条約批准の遣米使節団派遣。
 使節団は主艦の米艦ポーハタン号で横浜から出航、副艦として咸臨丸も行きました。
勝海舟が副艦の責任者として乗船し、かの福沢諭吉も軍艦奉行の従者として同乗しアメリカに学び後の日本人教育に大いに役立てました。
条約交渉よりも、幕府の若手が先進国をつぶさに見聞きし勉強してきたことは大成果だったと思います。
 その中心は、目付(監察)として渡米した小栗上野介です。
彼は、交渉終了後さらに2隻の船を乗り継いで地球を一周して学び1年後に帰国しました。
僅か33歳という若さでしたが、帰国後は多くの奉行を務め、江戸幕府の財政再建や、洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行い、8年間幕政をささえ日本の近代化を押し進めました。
 昔の33歳と今とは随分違うものですね。


【中国の住宅事情、最初の上海】
 私は中国生活16年弱の間に上海を中心に住居を8軒(内一軒は蘇州)変えました。
 最初の住宅は、2000年から住んだ上海市浦東新区の「世紀大道」という駅の近くにあったマンション。
比較的新しい2LDKを4軒借りて、日本人赴任者6人で入居しました。
新婚さんと私が各1軒使い、他の独身赴任者4人が2人で1軒を使いました。
多分10階建ての7階だったでしょう。私の一人住まいには広く、家具調度もしっかり付いており良かったと思います。セキュリティもしっかりとしており、買い物にも徒歩圏内に大きな上海第一八佰半百貨店(日本では消えたヤオハン)もあり便利なマンションでした。
 しかし、ここは1年足らずしか住まず、日本人出向者6人全員で転居してしまいました。
理由は毎日のタクシー代がかさむこと、タクシーを拾うことが大変だということです。
通勤は送迎バスで通うためタクシーを使うことはありませんが・・・・。
 当時の赴任者は新婚夫婦が1組、単身赴任が5人でした。
新婚以外の5人の夕食は殆ど外食であり、また食後に一杯飲みに出ることが日常茶飯事でした。
当時の浦東新区には、居酒屋やバーなどに良い店が無かったので旧中心地へタクシーで通っていたのです。
上海市は、?浦江という川で東西に仕切られ、旧中心地は川の西側に広がり浦西と呼びます。
 黄浦江の東側の浦東は、かつては不便な農村でしたが改革開放後は浦東新区となり、急速に開拓され超高層ビル街となり、更にその郊外は工業団地や住宅団地であり空港も作られ、上海のシンボル的な存在であり、中国経済をリードしています。
 2000年当時の浦東新区はその端境期で、お遊びのお店が少なかったということです。
また、タクシーが浦東から浦西へ渡るのには地下トンネルが最短ですが、混んでいるため遠回りして橋を渡るルートと一日おきにされたというのも不便でした。
 2001年に、通勤よりもアフターファイブの過ごし方を重視し、浦西の江蘇路駅の近くに皆で引っ越してしまいました。新婚夫婦は2LDK、私は1LDK,その他の単身赴任者4人は1K4軒です。
前と違って全員が先輩などとの同居から解放されました。
マンションの1階にはスーパーがあり、近所にもお店が色々ありました。
もちろん外食や飲み屋に不自由は全く無く、皆さんに感謝されました。
 上海生活の最も強い印象は、空気が汚いということです。
お手伝いさんが来て洗濯しても、必ず屋内の物干し場(サンルーム)に干していました。
何故外の空気に当てないのかと聞いたら「外に干したら汚れるよ、外に干すのは貧乏人だけだよ」と言われて驚きました。
 書き洩らしましたが1軒目も含めて、家具や電化製品・食器などの全てが大家が用意し、自分で用意するのは衣類と洗面道具だけで済むのは楽でした。(寝具は会社が用意)
 

【中国の住宅事情、蘇州】
 2002年からは勤務の都合で蘇州市のマンションに住みました。
 当時の蘇州は田舎ではないものの、まだ「地方」という感じで、蘇州人の住宅事情は日本の前世紀並みと思えるほどでした。まともなスーパーも無く、日常の買い物は市場でした。
しかし、中心部に日系のデパートが出来たのには驚きましたが高すぎてそこで買い物をした記憶はありません。
 したがって、当時は日本人向けのマンション即ち高級マンションというイメージでした。
2000年頃から、郊外に大工業団地が造成され人件費の高い上海を避けた日系企業が急速に進出しました。
上海の浦東新区の後を追いかけていたとも言えますが、工業団地を開発したのがシンガポール系の会社であるためか、もっと広く立派だったように思います。
とにかく日本人駐在員が急増し、それに向けての高級マンションも急増しました。
しかし、まだ物件が少ないという足元を見られたのか上海よりも高いという印象でした。
 私が入ったマンションは、工業団地に近い蘇州新区に作られたホテル式マンションでした。
ホテル式というのは、ホテル並みのサービスが付いているということです。
部屋そのものは上海のそれと殆ど同じですが、掃除・洗濯と朝食付きという嬉しいサービスが付いていました。
週に数回掃除に来てくれ、洗濯は名前のタグを付けた衣類を決まった場所に出せばその日の内に洗濯しアイロンがけして届けてくれます。だからか、サンルームは有りませんでした。
下着や靴下まで洗濯してくれたので衣類在庫が少なくて済んだのは良かったのですが、靴下までアイロンがけされた結果、殆どのゴムが駄目になってしまいました。
 朝食は、高カロリーだったのと、レストランまでがやや遠いので自炊する方が多かったようです。
それらのサービスは、若手の独身者には過剰であり勿体ないと思い、彼らには部屋代だけの契約としましたが、我々には極めて便利な契約でした。
 おまけに、徒歩で10数分の所に、日本式レストランや飲み屋(居酒屋・バー・クラブ等)が数十軒並ぶ「商業街」という通りがあり極めて便利でした。

 蘇州も色々な事情から1年少々で引き揚げ上海へ戻りました。
蘇州での生活は短期間でしたが、中国を理解するのに極めて恵まれたよい機会・経験だったと思います。
しかし、生活が蘇州だけだったらそうは思わないでしょう。
上海と蘇州両方の生活体験をして、しかも、成長端境期に暮らすことで初めて中国を理解できたと感謝しております。
 この後上海にて13年間生活し、更に貴重な体験をさせて頂きました。
 2003年以降の事情は後ほど。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
佐藤忠幸/Sato Tadayuki 
TEL&FAX 045-771-1745 
MP 080-5467-4187
E-Mail: tada-sato@mvb.biglobe.ne.jp
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


公益社団法人いわき産学官ネットワーク協会
〒970-8026 いわき市平字田町 120番地 LATOV6F いわき産業創造館内
TEL:0246-21-7570  FAX:0246-21-7571 E-mail:iwaki-sangakukan@bz01.plala.or.jp
Copyright (C) ICSN All rights reserved.