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「今だから話せる佐藤のコラム 第42号」(初めての海外生活42)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2020.08.29
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第42号」(初めての海外生活42)をお届けいたします。

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横浜初めて物語と佐藤の中国生活12
                        8月25日     佐藤忠幸
 新型コロナの終息前に猛暑が到来し熱中症の死亡者がコロナ患者を超えているとか。
天然自然の営みがますます狂ってきましたね。
 思い返すと私が子供の頃の我が家は扇風機がありませんでした。
先日姉に聞いたら、寝る時は窓を開放し蚊帳の中でうちわで扇ぎながら寝るのが何処の家でも一般的だったよと言っていました。
エアコンどころか扇風機でも夢の時代でしたそれでも熱中症なんて聞いたことがありません。
貧乏だったということもあるでしょうが、当時と気温が全然違います。
 私でさえもエアコンが無い時代に育ったのですから、先輩方には電力節約以前の問題でエアコンを避けている方もいます。
そういう方には気候と時代背景が変わったことを説いて聞かせなければ使ってくれませんよ。

 富岡川せせらぎ緑道では、サルスベリ(百日紅)が見事に咲き誇っています。
しかし、この暑さのなかで見ていると余計に暑苦しく感じます。
昔はそうは思わなかったのですが何か変ですね。これも気候の違いでしょうか。
 我が家のサルスベリは植えてから30年以上経ちました。
その為か周りの地面から脇芽が出てどんどん株が増えます。20年ほど前にいくつかの株を分けて裏山に植えたり知り合いにあげたりしました、どれも花が咲きませんでした。
ところが今年は根元から出た脇芽にも見事な花を付け足元を華やかにしてくれています。
脇芽がこれほど花を付けたのは初めてかもしれず嬉しくなりました。
 ところが裏山に株分けした樹はもう3mを超し、大人の樹木になっているのですが、昨年まで殆ど花が咲きません。
今年咲かなければ切り倒そうと思っていたら今年はちょこっと咲きました。
ちょこっという意味は花の期間が普通は数か月あるのに裏山の花は2週間ぐらいしか咲きませんでした。切り倒されないようにという自己防衛で形だけ花を付けたのかなと思い、もう少し様子を見ることとしましたが、不思議な木です。

今号は「横浜初めて物語」と中国生活で得たエピソードを送らせていただきます。

【我が国最初のアイスクリーム】
 猛暑の今に欲しいものの代表はアイスクリームですね。
そのアイスクリームを日本で最初に製造・販売されたのが横浜です。
日本人で初めて製造したのは、1860(万延元年)年に日米修好通商条約の最終確認のため徳川幕府が咸臨丸で派遣した使節団メンバーの町田房蔵です。
日本人で初めてアイスクリームを口にしたのは、この万延遣米使節だといわれています。
米国でアイスクリームを口にした使節団メンバーの柳川当清は航海日記に次のように書いています。
「珍しきもの有氷を色々に染め物の形ちを作是を出す味は至てあまく口中に入るゝにたちまち解けて誠に美味なり是をアイスクリンと云」。
 町田房蔵は、その後アイスクリームの研究をして、1869(明治2)年に横浜の馬車道通りに開いた「氷水屋」で販売した「あいすくりん」が日本人による初めてのアイスクリーム製造販売です。
そのお店跡の近くには「アイスクリーム発祥の地」として「太陽の母子像」(本郷新作)銅像が立っています。

 町田房蔵の横浜でのアイスクリーム販売は、前記の様に「日本人としてのアイスクリームの事始め」です。
日本最初のアイスクリーム販売は1865(慶應元年)年の横浜外人居留地のアイス・クリーム・サロンです。
開国で米国から日本にやってきたサーカス興行主リチャード・リズリー・カーライルが中国.天津や米国ボストンから氷を輸入し、アイス・クリーム・サロンを開いたのです。
カーライルは西欧式サーカスを日本で最初に興行した人として有名ですが、サーカスは横浜での興業が許可されないため氷や水の販売に転じた訳です。

ところで、町田房蔵の「氷水屋」は、初年度は大赤字でした。
何しろ小さなガラスの器に一盛りで金二分(今の貨幣価値で約1万円)というべら棒な値段でしたから評判にはなったものの皆物珍しそうに見るだけです。
しかし、町田房蔵は懲りずに翌年の横浜.伊勢山皇大神宮の大祭で茶店を出店。そこでアイスクリンを販売したところ、予想外の大盛況でした。
これをきっかけに、また氷の原価低減が功をそうして横浜の街に「氷水店」が急増しました。
 おかげで町田房蔵は「アイスクリームの父」と言われています。

【アイスクリームの生命.氷】
 当時の「アイスクリ」ンの原料は、もちろん氷が主体であり、それに生乳・砂糖・卵黄で味付けされており現在の「カスタードアイス」に近いものと言われています。
その原料の中で最も必要であり最も入手困難だったのは氷です。
町田房蔵のアイスクリンは、中川嘉兵衛が切り出しに成功した函館氷を使ってやっと出来ました。
 愛知県岡崎市出身の中川嘉兵衛は、初代英国公使・オールコックのもとでコック見習いとして働くうちに、西洋の食文化の普及、流行を予感し、牛肉と牛乳の販売店を開業ました。
さらに函館氷の国内での供給に成功し、清国、韓国、シンガポール、インドなどへの輸出にも着手しています。
しかし、函館での採氷前には、富士山麓、信州諏訪湖、日光山中、奥州釜石、青森県堤川とあちらこちらで採氷を試みたが何れも失敗。さらに北上して北海道の函館に渡り採氷池を設けたがこれも失敗しています。
 1868(明治元)年、事業家・後の動物学者の英国人ブラキストンの忠告により英国人ジョージを雇い入れ、函館五稜郭の外壕で初めて天然氷約500トンの採氷に成功しました。
五稜郭の外壕の水は水質が極めて清冽で運搬にも便利であり「龍紋氷」というブランドでやっと日本一の氷となったのです。
しかし、開削費や京浜地方への運賃、外国商社との販売競争、暖冬、大風などの自然条件による被害で企業的には厳しい状態でしたが開拓使の資金援助をとりつけ、米国から伐氷機を購入し品質の向上を計り、ついに外国商社に勝てるようになったのです。

 1879(明治12)年には、日本初の製氷工場は横浜山手で、米国人のアルバート・ウォートルスによって機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」が設立されています。
元町・中華街駅近くの谷戸坂入口に「機械製氷発祥の地」の碑が立っています。

 この頃からアイスクリームも、庶民の食べ物とは言えないまでも一般国民でも何とか手が出る存在となったのです。

 冒頭に記したように、町田房蔵の「氷水屋」付近(馬車道)に「太陽の母子像」がアイスクリーム発祥記念として作られています。1976(昭和51)年11月、日本アイスクリーム協会が寄贈したものです。
 その像が、色っぽい母娘のヌード像なのでどうしてかなと思ったら、アイスクリームの原料のミルクから、母乳で子供を育む母をイメージして制作されたものだそうですが、それにしても色っぽ過ぎるかなと下らぬ心配をしています。
 なお、日本アイスクリーム協会は、町田房蔵が店を開いた5月9日を「アイスクリームの日」と定めていますが、町田房蔵のアイスクリーム販売は明治2年6月(新暦だと7月)のため、「アイスクリームの日」とは直接関係はありません。これはどうなっているのかなー。
どうもつまらんことが気になる今日この頃です。困ったことです。


【中国人はソフトに金を使わなかった】
 前号にて2000年頃に中国の子会社でパソコンを次々に買い増ししたことを書きましたが、その時代のソフトについて報告いたします。
 日本のパソコンは、当時はソフトとセットで売っていましたが、当時の中国はハードとソフトは別々に売っていました。ハードを注文すると「ソフトはどうしますか?」と聞かれます。
それは単なる形式的なもので、答えの大部分は当然の様にソフトは無料の偽物を頼み、ハード販売業者にインストールしてもらっていました。
 個人のパソコンならいざ知らず、業務用に偽物を使うことには心配ですし、ソフトに投資しないことは私の性分として気に入らないため、全部正規ソフトを入れようとして中国人幹部に猛反対されました。
その調整のために、幹部との話し合いに随分時間がかかったことを思い出します。
結局、間をとって半分は偽物、半分は本物としました。
自分としては不満でしたが、中国人幹部も、無料で済むものを何で高い金をつぎ込むのかと、不満だったようです。
 後に、知り合いの中国人大学教授に「何故中国はソフトに金をつかわないのか?」と聞いたところ
「先進国の日本がソフト代を払うのは当然でしょう。発展途上国の貧乏な中国がハンディキャップとして無料ソフトを使うのは致し方のないことだよ」とのお答えでした。
そして、更に「中国が何年後かに先進国の仲間入りをしたらソフト代を払うのは当然です」とのことです。
 ほぼ先進国入りし世界第二位の経済大国の今の中国は、
 キチンとソフト代を払っているのでしょうか?
 偽物ソフトは市場から消えているのでしょうか?
 そう言えば、当時の上海や蘇州では屋台でDVDソフトを沢山売っており、日本の映画も随分売っていました。
 恥ずかしながら、私も買いましたが表に並べているDVDは1,500円以上のものばかりです。
「もっと安いのは無いの?」と聞くと、売り台の下からこれなら150円だよと必ず出してくれます。
勿論、偽物DVDですが、画質はそれほど悪くありませんのでもっぱらそればかり買いました。
中国人に、10倍もする本物を誰が買うのかと聞いたところ「誰も買わないよ、高いものを表に並べているのは警察対策だよ」とのことでした。
 ちなみに、警官も自宅で見るのは全て偽物だそうです。
 今はどうなっているのかなー。

【偽物DVDには2種類あり】
 偽物ソフトはどうやって作るのかは素人の私には分かりませんが、映画やドラマのDVDの偽物の作り方は何となく分かりました。なお、2000年当時はDVDではなくVCDでしたが、それもDVDに含めます。
 最も多い偽物は、古い映画やドラマなら日本で発売されたDVDを数枚買って、それをコピーし中国語の字幕を入れたものです。コピーされたDVDに新たに作った目次を貼り付けてケースに入れれば中国語のオリジナルDVDのようになります。
黒澤明や小津安二郎全集など日本で買えば数万円のものが数千円で買えました。
もちろん単発の映画なら数百円です。

 日本でまだDVDが発売されてない新しい映画はどうするか?
これは映画館で映画を撮影しそれをDVDに編集します。
だから少々高くなりますが、日本でさえも見られない映画を、中国の自宅で見られるなんてすごいことですね。
その典型が、2003年に上映された「ビートたけしの座頭市」でした。
これは東京で初上映されたその月に上海でもDVDが出たので喜んで買ったものです。
でも、時々映画館で鑑賞している観客が画面の下の方に映っていておかしいというか面白かったことを覚えています。

 今の中国ではパソコンソフトも含めて偽物はどうなっていますかねー。
 ITノウハウ全てに関して厳しく監視・管理されている中国ですから、当然偽物も追放されてることを期待してやみません。

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