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「今だから話せる佐藤のコラム 第35号」(初めての海外生活35)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2020.02.09
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第35号」(初めての海外生活35)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第35号」(初めての海外生活35)◇

横浜初めて物語と佐藤の中国生活⑤
                           1月23日     佐藤忠幸
 令和2年を無事に迎えることが出来て感謝いたします。
 今年が皆さんにとっても佳き年であることを祈念しております。
 本年も相変わらず駄文を書き続けさせていただきます。
 お忙しいなか申し訳ありませんがお付き合いの程宜しくお願いいたします。

 富岡川せせらぎ緑道では「今咲くのは俺たちだけだ」とサザンカが元気に咲いています。
今号の「横浜初めて物語」は、明治に横浜で開業した国際郵便史を報告します。
併せて引き続き、16年間にわたる私の中国生活で得たエピソードを報告いたします。
 ところで、バドミントンの桃田選手がマレーシアで交通事故に巻き込まれて怪我をし、日本へ搬送されたという報道があります。
私も似たような交通事故で1993年2月に首の骨を折り、3月にマレーシアから日本へ空輸されたことを思い出しましたが、これについては別途報告いたします。

【年賀状の季節】
 1月(正月)というと年賀状を思い浮かべます。
そんなの旧いよ、今はSNSの時代だと仰る方も居られますが、私にとって年賀状は切り離せない時候の行事です。
しかし、お出しすることをためらう方が年々増えてきたのには困惑しています。
 もう数年間お返事がないが未だ御存命だろうか?
 お返事は書けないが読むのは楽しみにされているのでは?
と迷う方が増えてきました。しかし、当方が出せるうちは極力出し続けようと思っています。
ご自分の意思で年賀状を止める方からは何らかのお知らせがありますが、何のお知らせも無くいつの間にか音信不通になってしまうとは本当に寂しいことです。
 私のように海外生活が長い者にとっては、年賀状やクリスマスカードは、更に特別な意義がありました。
数十年前には、インターネット通信(メール)も、FAXも無く、日本の家族や知人との交信手段は国際電話か国際郵便でしかありませんでした。
国際電話など到底高くて親の不幸のお知らせ以外は使えませんでしたので国際郵便を毎週の様に使っていました。(業務ではFAXが主流だったが)
 でも、当時の国際郵便は今と違って極めて好い加減でした。
例えばマレーシアから日本の横浜の留守宅へ送る場合の所用日数は、運が良くて半月、運が悪ければ1ヶ月かかりました。運の良し悪しというのは郵便船の出航タイミングと言うことでしょう。
昔は、飛行郵便(エアメール)だとすごく高いので原則船便を使ったからです。
 送り方は、まず国際郵便専用封筒を買って極力薄くて軽い用箋に手紙を書き郵便局(その地方の本局)へ持参し、重量を計り重みに応じた切手を買い送ってもらいます。
行先に応じた日本の港(私の場合は横浜港)まで送り届けるのは、マレーシアの郵便局の仕事であり、日本国内での配達は日本の郵便局の仕事のようです。
だから、日本の送り先の住所が間違っていると、国内郵便なら「宛先不明」で戻ってきますが、当時の国際郵便は「宛先不明」の郵便物はどこかで消えてしまったものです。
 今ではエアメールでも当時の船便よりも安く、早ければ3日で中国上海に届きます。
本当に革命的な進歩です。
 その国際郵便が日本で正式に始まったのは、たった145年前の1月、それも横浜でした。

【国際郵便発祥の横浜郵便局】
 日本の郵便制度は意外に早く、1871年(明治4年)には東京-大阪間で創設されました。
ポスト・切手・郵便局という基本は今と同じ仕組みでした。そして1年後にはそれが全国各地にまで拡がっています。
明治維新後、たった4年でそこまで行くのかと驚きですが、元々江戸時代から宿駅や飛脚制度が発達していたからでしょうね。
 しかし、困ったのは国際郵便です。
鎖国をして日本は外国との通信交換は禁止されていましたので、そういう制度や仕組みは全くありません。
横浜開港後、来日した外国人は母国や取引先の国との通信に困り、当初は外国郵便取扱い代行商社が作られたほど需要が高かったようです。
 やがて各国の領事館に「外国郵便局」と云われる、郵便係や郵便局が設けられました。
日本人も外国への郵便はそれを利用せざるを得ませんでした。
 郵便制度創設者の前島密はこれではいかんと、外国郵便を日本政府の管轄下におくべく作業を開始しました。最初に行ったのが1873年(明治6)の日米郵便交換条約の締結です。
その結果、今から145年前の1875年(明治8)1月にアメリカ領事館の郵便局が廃止され、新設した横浜郵便局に業務を移管し、開業式が行われたのが1月3日という訳です。
 その後、万国郵便連合が発足し、日本も1878年に加盟しています。その効果もあってイギリスやフランスなど全ての国が1880年までに外国郵便局を廃止し日本政府管轄下の郵便局へ移管され、改めて「国際郵便」としての制度が固まった訳です。
 
 ところで、前島密が1円切手のお方だとはご存知でしたか?
1円切手の肖像画は昭和22年以来一度もデザイン変更していません。彼の功労は単に制度や仕組みを作っただけでなく、外国から侵されている郵便の主権を取り戻したということが大きいと思います。
 彼は、新潟県上越市の豪農に生まれましたが二男のため、糸魚川市で藩医をしている叔父の家で育ちました。その後、江戸で蘭学や英語を学び、函館で航海術を学ぶなど猛烈に勉強し、31歳の時に前島家に見初められて養子に迎えら、郵便制度の父親となった次第です。
 意外に知られていないことは、晩年を三浦半島の横須賀市浄楽寺境内に作られた別荘で過ごしたということです。前島夫妻の墓所も浄楽寺境内にあります。
ここは、郵政民営化を断行した小泉純一郎の選挙区内ということも何かの縁を感じます。

 郵便局制度も郵政民営化も日本の近代化には欠かせない事業だったと思います。
しかし、昨今のかんぽ不正事件を見ていると日本企業特有の無管理・無秩序経営の典型風景と感じ、前島密に申し訳ないような気分です。


【窓開放禁止の空文化】
 前号、四国ソ-イングの中国上海子会社に関した最後に次の報告があります。
『古参幹部連中のインタビューをしました。彼らに、共通して聞いたことは「まず。私に何をして欲しいか」です。
驚いたことに
「まず、組織を明確にして欲しい。個人個人の仕事の役割を明確にして欲しい。これは平社員も同じで困っています」
と異口同音に言われ、前のトップは何を・・・・?と、唖然としました。』
 その、当時の前任トップには次のことで驚いたを思い出しました。

 上海工場のある日の全体朝礼で製造課長が「決まりを守れ」と厳しく注意をしていました。
その製造課長は中国人女性ですが、日本でも教育訓練を受けた経験のあるしっかり者ですのでそういう注意をしてくれるわけです。
その朝礼は日本語と中国語両方でしてくれるので中国人だけでなく日本人出向者も非常にタメになっています。

 その日の「決まり」というのは「窓の開放禁止」を守れと言うことです。
その工場は高級衣服を縫製していますから窓開けっぱなしではホコリが入るし、室内温度変化が激しくては品質に悪影響を及ぼすため開放禁止としたわけです。しかし、午後になると誰ともなく窓を開けて空気の入れ替えをする者が後を絶ちません。
 これを見かねて製造課長が厳しく注意をしたわけです。
 ところが、その朝礼に同席した日本人の社長や工場長はそれに関して一言も発言しません。
製造課長は「あんなに真剣に注意したのに何故フォローしてくれないの!」と怒っていました。
しかし、社長の次の発言でますます怒ったというよりも呆れてモノも言わなくなりました。
「エアコンの能力が足りなくて空気がよどむんだから窓を時々開けるのは致し方ないよ、でも予算が無いからエアコンの増設も交換もできないし困ったねー」
 今のお役人と同じ発言をトップである社長が言うのですから課長も呆れてしまいました。
ではどうすればよかったのでしょうか。
「窓の開放禁止」ルールが必要なら、社長権限で予算を作ってエアコンを増設すべきです。
それ程のことは不要ならルールを撤廃するか時間制約等に変更すべきです。
それらを何もせず「守れないから守らなくても仕方ない」として違反を放置するのは最悪のことです。
 ルールが有っても、そのルールがどんなに立派なものでも社員の都合や気分で守らなくても構わないとしたら、その会社は無法地帯となることは一目瞭然です。
そのルールに何らかの欠陥があったとしても、ルールはルールです。
その工場には「5S(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ)運動」のポスターが随所に貼ってありましたが全く有名無実となりました。
 社長も工場長も、当然の如く幹部社員との信頼関係が消えてなくなりました。
あの優秀な女性製造課長も、社長に対して無視する態度をすることが多くなりお先真っ暗な会社となってしまいました。
 皆さんの会社は如何?

【トップはオーナー社長の弟】
 この上海縫製工場の社長は日本のオーナー社長の弟で日本本社では常務取締役です。
すなわち四国ソーイング㈱としての対外的な位置づけはNO,2です。
しかし、父親である会長が存命であり、番頭格の専務取締役がまだ在職していたため会長.社長.専務の3人で大部分が決められ常務は何時も蚊帳の外だったようです。
 私が入社して間もない頃のある日、全体朝礼である人事発令が発表されました。それは社員の誰もが驚く抜擢人事でした。
皆と一緒に聞いていた常務に、ある社員が「あの人事は知っていたの?どうして彼が任命されたの?」と聞いたら、寂しそうに「私も今、初めて聞いたばかりだから・・・・・」とのお答えで、社員の同情をかったそうです。

 実は、オーナー社長と常務とは双子の兄弟です。
親父である、会長とお話しする機会があったので実状を伺うと、驚いたことに、生まれてからずーっと今までNO,2として育っていました。しかし、もっと驚いたのは実は長男と二男とが危うく間違って届けられそうになったことです。
 双子で生まれた場合、最初に出産した方が二男で後から生まれた方が長男と法律で決まっているそうです。
最初に産まれた常務を長男として役所に届けようとしたらお産婆さんに間違いだと注意され、慌てて修正したそうです。
 兄となった社長は、県下第一の名門高校を卒業し四国第一の名門大学に進学し、卒業後はアメリカに留学し着々と社長コースを歩んできました。
 二男となった常務は、進学先はもちろん地方NO,2の学校。大学卒業後は商社に就職して番頭修行し、NO,2となるように育てられてきたのです。
 生まれたタイミングという運命のいたずらでお互いの将来が決まってしまったという訳です。
NO,2となるように育てられた者に、企業トップである社長がいきなり務まる訳がありません。
いくら、中国でも、子会社でも、企業経営の根幹は同じです。
 トップに向けての修行をある期間すれば何とかなるでしょうが、親会社の常務という肩書だけでいきなり務まるほどの甘い職務ではありません。
しかし、相変わらずそういう人事を行う企業が多いのも日本の弱点かもしれませんね。

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