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「今だから話せる佐藤のコラム 第27号」(初めての海外生活27)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2019.06.09   
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第27号」(初めての海外生活27)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第27号」(初めての海外生活27)◇

富岡の歴史と初めての中国生活⑬               
                5月21日 佐藤忠幸
 令和の語源となった詩「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫す。」
を読み返す度に、大切な人達とともに、    また、新たな元号を迎えられたことに喜びと感謝を感じつつ過ごしております。
 富岡川せせらぎ緑道では、春を楽しませてくれた桜の青葉、晩秋を彩ったイチョウの若葉が気持ちを一層和ませてくれ、すっかり初夏となりました。
そして自然の営みの不思議さ賢さを語ってくれています。
「横浜市金沢区富岡」を地域の歴史講座で学んだ知識を基に調べたいくつかのエピソードを報告いたします。
併せて、私の中国生活について報告いたします。

【富岡の語源】  平成が終わりました。
 富岡の我が家は昭和63年に建てて引っ越し、その祝いを兼ねて昭和64年早々に、懇意にしていた顧客を招いて麻雀の会を自宅でした時のことを思い出します。
皆さんで朝食しながらTVを付けたら、昭和天皇が崩御されたとのニュースを大々的に放送しており驚きました。即ち昭和から平成にかけて新築祝い麻雀をしたわけです。
顧客の一人が「こんな時に佐藤さんが一人勝ちして~罰当たりだよ!!」との冗談を今でも忘れません。
その数時間後、新元号は「平成」だとの発表があったのです。
 ところで、「白雉(はくち)」という元号があったのをご存知ですか?
驚くなかれ「白雉」は富岡の語源にゆかりがあるとの説もあるのですよ。
富岡の語源には諸説があってどれが本当なのかは不明ですが、3つあるようです。
これは以前報告したような気がします、ダブった方には申し訳ありません。  

語源その一 「鳥見ケ岡」から
 むかし、この地に住む長者が狩りで白い雉(きじ)が捕れたので、これを帝に献じました。時の帝も大層お喜びになって、長者に位を授けて元号も「白雉(はくち)」と改めたと言われています。
長者は喜び、この辺りを「鳥見ケ岡」と名付けて、一番高い所へ雉の霊を慰めるために塚を作ってお祀りました。
そして、いつしか人々はその塚を「鳥見塚」と呼ぶ様になりました。(鳥見塚という名は、町名やバス停として今でも残っています)
そのことがあってから、村は栄えて村人の暮らしも豊かになったので、何時とはなしにこの村は「留岡」あるいは「富岡」と呼ばれるようになったという話です。
 なお、白雉(はくち)は、孝徳天皇の時代(大化の後)、西暦650年からたった5年間という短期間にあった日本の元号のひとつです。
しかし、穴戸(あなと)国(山口県)の国司・草壁醜経(くさかべしこぶ)から白雉(しろきぎす、白いキジ)が献上されたことを瑞祥として改元が行われたとされる(祥瑞改元)説もあり、どちらが本当でしょうか?

語源その二 「十三丘」から
 ここらは、多くの入り江を抱えていた関係で高低差が大きく、丘が多い地方です。
そのため、たくさん(十三)の丘があるから十三丘(とみおか)と言われ、それが後に富岡に変ったという話です。
私の考えでは最も有力な語源だと思います。

語源その三 「富水岡」
 ここらは、地下水などで水が豊富にあることから、「富水岡(とみおか)」と呼ばれるようになったとも言われています。
現在も富岡の地には、国道16号線より海側の民家に自噴井戸がありこんこんと水がわき出ています。
富岡川は、今は暗渠となり代わりに「せせらぎ緑道」と云う散歩道を作りその脇のせせらぎが市民の憩いの場ともなっていますが、この水は枯れたことがありません。
我が家の近所の側溝(とは言っても全て暗渠ですが)の所々にある掃除口からは常に水が流れる音が聞こえます。
見れば清流がさわさわと流れており、相変わらずあちらこちらに地下水の湧きだし口があるのが分かります。
これが富岡の語源かなー。

どれが本当の語源なのでしょうか?地名の謂れなんていい加減ですね。

【富岡別荘地に住んでいた著名人 その1】
 富岡海岸は古くから風光明媚の地で有名でしたが、清遊で訪れるだけの地方でした。
ところが、横浜開港に伴い、明治7年(1874年)横浜中心部の運河工事が完成したことにより、のどかな入江と閑静な富岡は一躍、活況を呈しました。
横浜港から一気に根岸湾に出て富岡、金沢に至る舟運が完成したからです。
これにより明治10年から20年頃にかけて富岡に、明治の元勲と呼ばれた人たちや財界指導者、芸術家たちがここで清遊するだけでなく、競って別邸を構え、夏は富岡で閣議が開けた程でした。
富岡に別荘を持っていた有名人の代表は伊藤博文ということは前号にて紹介済です。その他の人も数名数回に分けてご紹介しましょう。

◆三條実美‥‥‥尊攘倒幕派の筆頭公卿、公爵・右大臣・太政大臣。
 明治維新後は薩長閥の政治家の中で影が薄くなってしまいましたが岩倉具視とともに旧公家勢力を代表する政治家でした。
三条実美は明治21年、富岡の浜に別荘を建て富岡海荘と名付けました。
昔の横浜海軍航空隊基地の付近で今の富岡総合公園の隣にありました。そこは、今では残念ながら、住宅団地となって記念碑以外は跡形もありません。
三条実美というと、幕末の公家で尊王攘夷運動に関わり、政変で京都を追われ長州まで逃げ(七卿落ち)、蟄居ののち王政復古後は太政大臣になった人物として知られています。
新政府樹立と共に、ほとんどの公卿が閑職に追いやられた中、高位高官をつとめた希な経歴の持ち主です。
また、最後の太政大臣として太政官制を最後まで擁護しながらも、内閣制度の発足に伴い、内大臣職を宛てがわれると、これが三条処遇のために作られた名誉職である事を承知の上であっさりと引き受け、初代内閣総理大臣・伊藤博文の門出を祝ったという男気が有名な話です。
 彼は、富岡の自然を愛した、別荘を中心に横浜中心部から三浦半島にかけての海岸線風景を明治22年に画かせたのが富岡海荘図巻です。
この画は「横浜開港資料館」に行けば見られます。今は失われたかつての美しかった海岸線をこの図巻でしのぶことができますよ。

◆井上 馨‥‥‥長州出身。外国事務掛、会計官判事、造幣頭、大蔵・民部大丞、参議。工部卿、外務卿として条約改正、欧化政策推進。
 明治17年、伊藤博文が仮寓する屋敷に隣接して、野本重郎左衞門から土地を借り受けて別荘を建て、伊藤博文中心の憲法草案作成を助けました。
風流な別荘で、釣り遊びをする子供達も流れ来る不思議な三味線の音に聞き惚れたとのことです。
また相撲を好んだ井上は、土地の青年を集めて眼下の砂浜で勝負をさせて見物し、勝者には褒美をあげたそうです。
ある朝、別荘を訪れた数人の男が、若い者に「井上は在宅か」と、問い掛けてきたので、若い者は「先生はたった今、東京へお立ちになりました」と答えました。
男達は、「ああ、一足違いか今なら追えば間に合うな」と急ぎ去りました。
その時井上は、朝風呂を楽しんでいたという話が残っています。
もし、若い者の機転が利かずこの時襲われていたら、その後の井上の活躍は見られませんでした。
 別荘はその後、富岡楼という料亭として昭和10年代まで繁盛していたそうです。
なお、野本家の子孫は健在で、その邸宅が富岡駅周辺に沢山散らばっています。


【S会長は何故中国蘇州進出に反対したのか】
 2003年に中国蘇州市で設立した蘇州S工業は「蘇州の新会社は失敗するだろう」というS会長の期待を裏切って(?)成功してしまったのですが、S会長は何故蘇州進出に反対したのでしょうか。
この理由は私が辞めた後の人事異動で分かりました。
 二つの理由が考えられます。
一つは、中国には既に広州に工場が在り、それはS会長肝いりの工場で、お気に入りの者を派遣していました。
蘇州の新工場が成功したら広州工場の立場が危なくなると思ったのでしょう。
結果的に、広州工場は(蘇州工場の有無に関係なく)経営不振に陥った時、そこのお気に入りの者を蘇州へ異動させ、蘇州で育てた幹部の多くをクビにしてしまいました。

二つ目の理由は、韓国の愛人との間に出来たS会長の息子(日本本社のバカ息子ではありません)を中国子会社の社長にしたかったようです。
それなら韓国にもある子会社の社長にすれば良さそうなものです。
しかし、韓国の子会社は韓国の超大手財閥系企業との合弁会社であり、先方から社長を出す契約となっており、それが出来ません。
そのため、韓国の息子を広州子会社の社長にしようとしていたが、蘇州にも子会社ができると広州の存在価値が落ちると思って蘇州設立に反対したようです。
結果的には広州子会社を閉鎖後、韓国の息子を蘇州子会社に移し、社長に据えてしまいました。
その為に蘇州工場の設立者であり蘇州社長のA取締役と副社長の私が邪魔になり、難癖をつけてクビにしてしまったのです。
 新人の私はクビにされても構いませんが、何十年もS工業と共に苦労をしたA取締役には悲劇でした。
A取締役の解任理由は「反省していない、謝らない」でした。A取締役にとっては何も反省も謝るものも無く、むしろ褒められるべき結果だったのですから、極めて悔しい思いだったでしょう。
後にA氏ご夫妻と夕食を共にした機会がありました。
奥様は「主人はS工業で長くあんなに苦労をしてきたのに・・・」、「蘇州工場の立ち上げにあんなに苦労をして、成功したのに・・・・・」と涙ぐんでおられたのが強く印象に残っています。
 「同族経営」を維持するために「出る杭は打たれる」でした。

【蘇州の事業立ち上げ】
 ところで、蘇州S工業は、実質的にはA取締役と私との2人で立ち上げました。
 二人での分担は、A取締役は親会社やお役人との折衝と顧客集め。私は工場棟の完成と事業の立ち上げです。
蘇州S工業は中国という異国での独立会社ですので、本社機能と工場機能の両方を併せ持つ必要があります。
日本の名目だけ別会社組織の子会社工場のような単純な工場立上げとは異なります。
それを適当に行うと、見かけは良くても中身のないとんでもないお荷物会社となってしまいますが、実は日系の中国子会社の多くはこれで困っていました。
老舗日本企業も「おかしなことをおかしいと指摘することは難しい」として、不正を告発しにくい企業風土の問題が度々話題となっていますが、そうならないよう細心の注意を払ったものです。
その牽引車となるべき、本社事務部門の責任者の採用には苦労しました。
そこで思い出したのが、上海のT社時代のC管理課長(財務兼総務課)です。
T社では私が解雇された時に、私が採用し育てた管理者の全員が半年以内に辞めたと思っていたのですが、不思議なことに女性のC管理課長だけが未だ辞めていませんでした。
ある時電話で「今どうしているの?何故辞めないの?」と話したら「佐藤さんから声をかけてもらえるのを待っていたのですよ」、
「それなら蘇州の新会社に来てくれる?」、「直ぐに行きます」と言って、早速翌日休暇を取って蘇州へ飛んで来てくれたのには驚き、かつ嬉しかったです。
C管理課長は1週間後に入社してもらい、本社機能のスタッフや管理者の採用と教育・仕組みづくりの中心となって活躍してもらい大変貴重な存在でした。
また、市役所や税務署などの各政府機関と、あっと言う間にパイプを作ってくれ驚きました。
デジカメで輸入税関とのパイプを強く持ったのも彼女で、非常に助かりました。

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