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「今だから話せる佐藤のコラム 第26号」(初めての海外生活26)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2019.05.04   
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第26号」(初めての海外生活26)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第26号」(初めての海外生活26)◇

富岡の歴史と初めての中国生活⑫
              4月24日
佐藤忠幸
 すっかり春となりました。日によっては初夏の陽気で体調管理と着ていく服装に毎日困ってしまいます。
富岡川せせらぎ緑道では、真っ白のコデマリや黄金色のヤマブキそして色とりどりのツツジが盛りを迎えています。
ツツジは、紫色のオオムラサキツツジ、白色のドウダンツツジ・オオムラツツジが鮮やかさを競っています。
そして、晩秋を彩ったイチョウやモミジの新芽が春を一層和ませてくれると同時に四季の有難みを強く感じさせてくれます。

 最近「横浜市金沢区富岡」を地域の歴史講座で学んだ知識を基に調べたいくつかのエピソードを報告いたします。
併せて、私の中国生活について報告いたします。

【富岡の昔は箱庭であり港町】
 今住んでいる横浜市金沢区富岡というのは、東京から近いうえに海あり山ありの箱庭的(今は面影も無いが)なところだったというのは以前報告した通りです。
しかも、波除神社として江戸にまで名前をとどろかし末社まで作られた富岡八幡宮の本宮(今では末社の深川の方が有名ですが)があることで有名です。
また、海水浴や魚釣り、アサリ、ハマグリを始めとしてバカ貝やマテ貝などの潮干狩の本場でもありました。
さらに、鎌倉に近い金沢地区と江戸を結ぶ海上交通の要衝でもありました。
江戸時代にはかなり大きな船が用いられ、沿岸の近くの比較的浅い所や、掘割りの運河を通る時などは、備えられた棹を肩に当てて押して進むので、押し送り船、通称「おしょくり」船も沢山活躍していました。
この船は主に湾内で活躍し、沖を走る時は大きな帆を揚げて走行したそうです。
毎週通っているプールの窓から見える東京湾を出入りする船を見る度に、僅か百年前の船とは偉い違いだなと感慨にふけります。
 幕末の開港により急激に栄えた横浜との位置関係が良かったということと、格好の波除、風除になり何時も安心して停泊できる所が有ったため「おしょくり」船を始めとした海上運送を営む「名家」が富岡に数軒できました。
名家があったことからも富岡が高級別荘地となったようですが、最近ではその名家存在のおかげで富岡の発展が停まったとも言われています。
数軒の名家とその一族・子孫が広い敷地を所持しており、それを売る必要も活用する必要も無いため、土地や借家の家賃は高止まりしており空き家・空地だらけという噂です。
まあ真意の程は分かりませんが。
 
【伊藤博文と富岡】 
お札のデザインが5年後に変わり、千円札は今の野口英世から同じく細菌学者の北里柴三郎の肖像画となるそうです。
野口英世は富岡の港検疫所に勤めていたことがあり、地元との縁を感じますが、その前に千円札の肖像画として長く(1963年~84年)使われた伊藤博文はさらに富岡との縁があります。
富岡海岸では明治10年代になると中央政界の要人が訪れるようになり、やがてこれら要人たちの別荘が建てられました。
しかし、富岡を別荘地として住んだ最も有名な人は伊藤博文です。とは云っても借家ですが。
富岡には、明治14・5年頃から伊藤博文など政界の要人が、多数訪れるようになり、不平等条約の改訂問題や、自由民権運動に関する案件、又は、憲法作成作業の諸問題などの検討会議などが、都心を避けて行われるようになりました。
その為に、伊藤博文が借用したのが、野本作左衛門の家でした。
 伊藤博文と重臣達はこの静かな富岡で密談密議を凝らしていましたが、あるとき休暇として金沢八景で有名な金沢の料亭へ出向きました。
その留守を狙った泥棒が、金銭と共に盗んだのが憲法草案の入った鞄です。
幸いに、価値の分からない泥棒は、紙切れは金にならぬと裏の畑に捨てたので憲法草案は無事に戻りました。
その後、人の出入りが難しい夏島という所に移り、憲法草案の完成をさせたので夏島憲法と呼ばれています。
泥棒が入らなければ富岡憲法と呼ばれたのに、惜しいことをしました。

 伊藤博文は、日清戦争の勝利に伴う日清講和条約により朝鮮の独立を清国に認めさせました。
日露戦争後の明治38年(1905年)第二次日韓協約により韓国統監府が設置されると伊藤が初代統監に就任し、以降、実質的に日本が朝鮮を統治しました。
しかし、伊藤博文は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して朝鮮の直轄を急ぐ陸軍軍閥と、しばしば対立しています。
朝鮮併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていました。
近年発見された伊藤の明治38年のメモによると「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていた事を裏付けるものだ」とされています。
また、伊藤は朝鮮国民の素養を認め朝鮮の国力・自治力が高まることを期待し、文盲率が94%というひどい朝鮮での教育にも熱心でした。
明治40年、朝鮮に赴任する日本人教師達の前で
「徹頭徹尾誠実と親切とをもって児童を教育し裏表があってはならないこと」
「宗教は朝鮮国民の自由でありあれこれ評論しないこと」
「日本人教師は余暇を用いて朝鮮語を学ぶこと」を訓諭しました。
 しかし、明治42年(1909年)ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人 安重根に暗殺されました。
安重根は韓国では英雄となり祀られていますが、本当は伊藤博文が韓国にとって恩人ではないでしょうか?
伊藤博文がもっと朝鮮統監を続けていれば反日感情はどうなったのでしょうか?
そして、日本が日露戦争で負けていれば、朝鮮半島の全てが共産国かロシア領となっていたが、その方が朝鮮(韓国)にとって幸せだったのでしょうか?

 伊藤博文が撃たれなければ、憲法草案が盗まれなければ、富岡にもっと永く住んだのにな~と、一人惜しんでいます。


【S会長は何故社内改革に反対したのか】
 S工業のS会長は、N社長などが中心となって始めた社内改革に反対し、N社長を解任・解雇してしまいましたが、何故反発・反対したのでしょうか?
結果から見るとその理由は明確です。
N社長の後継には、S会長のバカ息子に引き継がせ、周りを会長派閥というか、会長の提灯持ち連中で固めてしまったのです。
バカ息子は、閉鎖した(閉鎖理由は不明)東北工場の社長をさせていましたが、そこは元顧客出身の専務が実質的な経営者であり、バカ息子はお飾り社長でした。
本社に戻ったバカ息子は、実習中の私の近くに机があり、暇を持て余した彼から度々愚痴めいた話題で話かけられました。
例えば「嫌になっちゃうよー。会長から得意先に自分を売り込めと言われたが、経理部長からは接待費の使い過ぎだと文句を言われたよ。どうすればいいの~」です。
未だ組織に組み込まれていない私ですので何でも言えたのでしょうが、聞く方こそ嫌になります。
 S工業だけは「同族経営」ではないと思っていたのが大間違いでした。
このバカ息子を今度は、本社のお飾り社長に据えたのです。
S会長と、その取り巻き連中が社内改革に対して反対だったのは、何れも会社のためはなく、S会長の息子と自分らのことを考えてのことでした。
社内改革に成功していれば、こんな人事はあり得ません。先手を打たれた訳です。
そのため「出る杭は打たれる」でした。

当時の日本の中小・中堅企業独特の悪弊ですね。

【蘇州独特の因習】
 前号にて、蘇州で中古設備を新品設備に偽装して輸入したと報告しましたが、これは、当時では多分上海でも同じことが必要だったと思います。
即ち、当時の中国としては「中古設備は輸入しても構わないが歓迎すべきものではないので法定通りの輸入関税はかけますよ」という訳です。
しかし、輸入中古(それも物凄く古い)設備を新品に偽装したものが税関の検査の目をごまかせるかどうかは、いくら蘇州税関でも疑問でした。
そこで、採用したばかりの財務課長の進言により、税関のA課長にデジカメをプレゼントしました。
2002年当時の蘇州ではデジカメが珍しいものであったようで効果テキメン。
設備は全てコンテナーで輸入しましたが、税官吏は輸入インボイスを基にコンテナーを開けた瞬間「よしOK」と扉を閉めてしまい、税関検査は事実上無しでした。
詳しい検査は後日工場で開梱据え付けをした後に立会検査を行うからよいという名目です。
 後日、デジカメを差し上げた税関のA課長から「〇月〇日に〇〇が立会検査に行くのでよろしくね」と財務課長に電話がかかって来ました。
おかげで立会検査に備えて怠りなく準備が出来たのは言うまでもありません。
偽装工作不充分あるいは偽装できない設備はシートを被せて未開梱のように見せて設備本体を見えなくしたのです。
もちろん、税関の出張立合い検査員にもデジカメは差し上げましたので、梱包を開けとは言いませんでした。
検査員は帰り際に「立会い検査日を事前に知らせるとは、お宅はA課長と仲がいいねー」とのこと。
何と答えてよいのやら、大笑いで済ませましたが、こんなことは上海では通用しなかったでしょうね。

 とにかく、全ての設備を無事に免税で輸入出来ました。
関税の節約(脱税?)金額は数千万円、あるいは億の単位にまでなったでしょう。
それがデジカメ3台、たった10数万円で済んだのですから関係者からは非常に感謝されたのは言うまでもありません。ただし、本社からは一言もありませんでした。

 歴史の長い蘇州でも工業による近代的な発展はこれからという時期でした。
各種工業団地も整備途中で工場誘致に躍起になっていまですので古い因習から相変わらず断ち切れなかったのでしょう。
 日本も、首都圏から地方へ産業移管を盛んにしていた1970年代の地方都市と同じ雰囲気を感じました。
もっとも、日本の地方都市も悪い因習だけは未だ引きずっており、週刊誌ネタになっていることが寂しいことです。

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