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「今だから話せる佐藤のコラム 第23号」(初めての海外生活23)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2019.03.01   
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第23号」(初めての海外生活23)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第23号」(初めての海外生活23)◇

富岡の歴史と初めての中国生活⑨
                                         佐藤忠幸
 大寒も過ぎて将に真冬となりました。
富岡川せせらぎ緑道では、サザンカだけが咲き続けています。長寿ですね。
そういう中で夏ミカンの鮮やかな黄色が目立ちます。
普通のミカンは熟したら直ぐに小鳥に食べられるのですが、夏ミカンは食べられません。
皮が厚くて酸っぱいからのようで、小鳥は賢いですね。

 プール通いで最近気になることがあります。
それは介護付き(夫婦)で通うペアが三組だったのが最近一組に減ったことです。
以前いたのは、足が不自由で車椅子の方が二組、認知症が一組の合計三組で何れも介護を受ける方は奥様です。
それが今出会うのは足が不自由な一組だけです。
奥様がプール通い不能となったのか、ご主人が介護できなくなったのか、どちらにしろ寂しいことです。
二人で通えることの歓びを感じてもらいたいものです。
そして、いつまでも、介護されるよりも介護できる体調を保ちたいものです。

 最近「横浜市金沢区富岡」の激変している歴史を各種の講座で学習しています。
そこで得た知識を基に調べたいくつかのエピソードを報告いたします。
併せて、私の中国生活について報告いたします。

【福沢諭吉子孫の別荘があった富岡】
 近所の富岡小学校は明治6(1873)年に作られた富岡学舎が基という非常に歴史の長い学校だということは前号で報告しましました。
明治6年というと、戊辰戦争と西南戦争の中間であり西郷隆盛はじめとした英雄が大活躍した日本革命の真っ最中で、よくもそんな時期に学校を作ったものだと明治維新政府の先見性に感服したものです。
 関東学院大学の歴史講座で明治維新について学んだのですが、その思想的中心人物が福沢諭吉だということを改めて認識できました。
その福沢諭吉家の別荘が現在の富岡小学校の近所にあったことが分かったので驚いて調べました。
なおも驚いたことは別荘が二軒もあったことです。
1910年頃(大正の始め頃)、福沢諭吉の娘の房(フサ)と弟の福沢辰三のために富岡に別荘が建てられました。
京急富岡駅の横に京急ストアがありますが、その奥に福沢辰三の別荘が作られ、現在の富岡小学校の近くの別荘には房とその子「駒吉」が住みました。
二軒とも今は何もなく伝説的な存在となっています。
しかし、房の夫(養子)の福沢桃介は電力王と呼ばれた実業家であり、その息子の福沢駒吉は大正から昭和初期にかけて活動した実業家として有名であるため、記念の標識も作られましたが、私有地のため今では見られないのが残念です。
 ちなみに福沢諭吉の生涯を簡単に記すと下記の如くとなります。
   <福沢諭吉の生涯>
●1834年(天保5年)大坂・堂島にある中津藩蔵屋敷で生まれる。
●1855年(安政2年)大坂の緒方洪庵の適塾へ入門。 2年後、塾頭に。
●1856年(安政3年)兄三之助が病死したため中津に帰り福沢家を継ぐ。
●1858年(安政5年)藩命で江戸へ出府、
 中津藩中屋敷に慶應義塾の起源となる蘭学塾を開く。
●1859年(安政6年)横浜見物を契機に独学で英学を学び始める。
●1860年(万延1年)咸臨丸で渡米、帰国後幕府の外国方に雇われる。
●1862年(文久2年)幕府の遣欧使節団に随行して、欧米各国をまわる。
●1868年(明治1年)塾名を「慶應義塾」と定める。
●1882年(明治15年)日刊新聞『時事新報』を創刊。
●1901年(明治34年)東京・三田の自邸で死去。享年66歳。
 徳川幕府時代は、藩や幕府に仕えていたのが、明治維新となってからは民間人で通したことが彼らしいな感じたものです。
しかし、大ベストセラーとなった「学問のすゝめ」をはじめとする多くの著作と慶應義塾の教えで国政に強い影響を与えています。
それが、学校制度の制定と富岡小学校を産み、多くの実業家を産み、富岡が別荘地帯ともなったのでしょう。不思議な縁を感じます。

【一万円札最長記録の福沢諭吉】
 福沢諭吉というと、一万円札を思い浮かべます。
一万円は日本の最高額紙幣で、そこに描かれた肖像画は聖徳太子と福沢諭吉だけです。
聖徳太子像は1958年から1984年の26年間も用いられ、この記録は絶対的だと思っていたのですが、それを継いだ福沢諭吉像は既に35年も経ち大記録保持者となってしまいました。
2004年にニセ札防止のためのデザイン変更はされましたが肖像画そのものは変わっていません。
国家元首でもないのに凄いことです。
 彼の著作『学問のすゝめ』では、「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と身分社会を批判し、生まれがどうであっても学問に励めば高い地位につけるような社会にすべきだと説きました。
このような考えに至ったのは、かつて下級武士の子というだけで冷遇された経験が影響しているともいわれます。

 そして、二度にわたる渡欧で当時の日本は、今とは比べものにならないほど貧しく遅れていたことを実感しています。そのなかで、自分が金持ちになろうというよりは、日本をもっとよくしようという気持ちを強く持ったのでしょう。
聖徳太子の「和をもって尊しとする」精神から福沢諭吉の「独立自尊」の精神へ。
それが今、国民一人一人に求められている精神なのだと思います。

 余談ですが、福沢諭吉はベビーカーの初輸入者でした。
1867年(慶應3年)幕府の遣欧使節団に随行した帰りに子供への土産として持ち帰ったのが日本最初のベビーカー(乳母車)です。
この実物は慶応義塾福沢研究センター(慶応大三田キャンパス)に所蔵されています。
諭吉の伝記には、門下生が諭吉の子を乗せて何度か街なかを歩いたという門下生の談話が載っています。
しかし、尊王攘夷で騒然としている江戸市街でハイカラな乳母車をどれだけ使えたかは疑問ですね。
その乳母車からヒントを得て、幌つき人力車が生まれたとも言われています。
幌つき人力車は、大正から昭和にかけて流行し、中国はじめ世界中でも使われました。


【クビ切れない人事課長はクビ】
 上海T社に私が赴任時の人事課長は、以前合弁会社時代に合弁相手から派遣されたエリートR氏で、T社唯一の課長職でした。
しかし、R氏は無能でしたので、合弁解消後も相手会社は引き取らないので暫くそのままにしておきました。
ある時、どう見ても不正を働いた運転手を見つけました。
不正内容は省略しますが、確証は無いものの不正は間違いなく行ったと思われました。
そして管理者と間接部門のほとんどの者が「不届きな奴だ」という話で持ちきりでした。
しかしR氏は証拠が無いからと言って何もしません。
その運転手をそのまま放置しておいては悪影響が強いので、R氏を呼び「あの運転手を即座に契約解除して15時までに退社させろ、その為の予算は2千元だ」、「これが出来なければ君はクビだ」と言い渡しました。
辞めさせるのに予算があるということは、会社都合でも何でもよい、理由は何でもよいからクビ(契約解除)しろということです。
1時間後、運転手が退職届を持って挨拶に来たのでホッとしたものです。
 それから暫くしたら、「不正を働いたあの運転手はやはりクビになった」という噂が浸透しました。
その結果「T社は不正をしたりして悪いことをすると直ぐにクビになるぞ」、「逆に真面目な奴が損をしたりバカな目を見るということは無いぞ」という評判がたって結果はよかったと思います。
まあ、2008年の労働契約法施行後はそう簡単にクビには出来なくなりましたが、中国のことですから裏道はいくらでもあるでしょう。
 しかし、このことが将来自分に跳ね返ってくるとは思いもしませんでした。

【最高のリーダーほど教えない】
 最近「最高のリーダーほど教えない」(鮎川詢裕子著、かんき出版)という本を著者からいただきました。久しぶりに出会った名著で、
〇最高のリーダーは「教えない」で「気づかせる」
〇部下を気づきに導く「かかわり方」
〇部下を気づきに導く「聴き取る力&質問力」
〇「気づき」を行動に変える 等々
管理者や経営者ならずともご家庭でも参考になることが一杯です。

 その必要性を上海のT社で痛感した事例が多々ありました。
私が社長として赴任した当時のT社は大赤字で、存続が危ぶまれた会社です。
建て直しのためには技術指導も必要だということで工場各部門から選抜して3名派遣してもらいました。
(後から本社の人に聞くと、存続の危ういT社への派遣はどこも消極的で、はみ出し者しか出してもらえなかったそうです。)
はみ出し者であろうが無かろうが無関係に、彼らの力を100%出してもらおうと、また中国人幹部を育てようとして、日本人派遣者は全て技術顧問として組織から外し、「成功は中国人の成果、失敗は日本人の指導ミス」の思想を徹底しました。
これは、K氏が赴任するまでは成功したと思います。
K氏とは、本社工場の分工場の工場長でしたがはみ出してしまい、T社に押付けられた者です。
K氏はT社へ派遣されても工場長に拘っていましたが、既に中国人製造課長を工場長に向けて育てている最中ですので、会社組織外の顧問団長としました。
しかし、K氏は組織を無視し、親会社の権威をカサに着て指示命令を頻発し、中国人管理者と衝突ばかりしました。しかも、指導という名目で「ああせい、こうせい」の一方的な指示ばかりで、何の為にそれをするのかも教えません。
だから親会社の分工場から追い出されたのかと分かりました。
年齢のせいか頑迷でいくら教えても、注意しても聞いたふりをするだけで大いに困ったことを思い出します。
当時に「最高のリーダーほど教えない」のノウハウがあれば助かっただろうなーと思ったものです。

 組織や人を育てなく、組織の維持継続をはかるだけという、現代日本の現状においてこの本の教えは最も必要な事柄だなと思います。

 今年も駄文・長文で申し訳ございませんが宜しくお付き合いの程お願いいたします。

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