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「今だから話せる佐藤のコラム 第16号」(初めての海外生活16)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2018.06.30   
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第16号」(初めての海外生活16)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第16号」(初めての海外生活16)◇

富岡の歴史と初めての中国生活②
                                 佐藤忠幸
 富岡川せせらぎ緑道は、梅雨が過ぎて真夏となったと思ったらまた梅雨と、相変わらず温度調節の難しい気象が続いています。
 そして、今週は真夏ですよー。
 6月22日に富岡の太極拳愛好会のメンバーと鎌倉へアジサイ見学と昼食に出かけました。
当初の予想では22日ではアジサイの時期も終わっているのではと予想されました。
しかし皆さんが参加できる日が22日しか無いため決めたので花は半分以上諦めていました。
参加者の皆さんはお年寄りばかりですので、美味しい食事が出来れば結構ということでしたが、梅雨に戻った昨今の陽気により未だ見事に咲いていて大喜びでした。
 アジサイ鑑賞という面では、この異常気象はラッキーでした。

 「横浜市金沢区富岡西」の歴史は激変していますので、エピソードを報告いたします。
 併せて、私が中国で暮らし始めた様子について報告いたします。

【6月10日は富岡空襲の日】
 6月10日は、ここ横浜市金沢区富岡がアメリカ軍から空襲に遭い多くの方が亡くなった日です。
しかし、残念なことにほとんどの方に知られていません。
1945(昭和20)年は日本本土への空襲が本格化された年です。
大都市は次の如くに撃滅しています。ちょうどこの間は悲劇的な沖縄戦も行われていましたが本土の多くの者はそれを聞いていません。
 3月10日:東京、3月14日:大阪、3月~5月:名古屋、5月29日:横浜

 5月末に横浜の中心部が空襲に遭い、横浜の空襲はもうこれで終わりだなと安心した10日後の6月10日に京急富岡駅周辺でアメリカ軍による空爆がなされました。
それは富岡周辺に有った横浜海軍航空隊(水上機基地等)と日本飛行機・石川島航空工業・大日本兵器(航空機用機関銃製造)・海軍用燃料庫などの軍事施設や工場の爆破を狙った爆撃です。
各都市の空襲の大部分は家屋を焼き尽くすのが目的ですから焼夷弾攻撃ですが、ここ富岡地区への空襲は施設の破壊を目的としているため、250キロ・500キロの爆弾による「爆撃」ですからなおさら悲惨です。

 6月10日午前11時頃、富岡周辺の各軍事施設を標的として爆撃がなされましたが、高度数千メートルもの高さから落とされた爆弾の多くは富岡駅や周辺民間住宅にも無差別に落とされたのです。
京浜急行の富岡駅にはちょうど上りと下りの2本の電車が入っていましたが空襲警報によって、近くの鉄道トンネルに避難しました。
一部のお客は駅から地上に降りて鉄道下のガード下の人道トンネルに逃げ込みました。
しかし、鉄道トンネルも人道トンネルも出口と入口近くに爆撃され、その爆風がトンネル内を通り抜け強烈な衝撃が加わり、中に避難していたほとんどの方が亡くなりました。
特に人道トンネルは間口4メートル位、奥行き20メートル程度の小さなトンネルですので尚更被害が大きかったようです。
亡くなられた方の人数は諸説ありますが、鉄道トンネルで60名、人道トンネルで40名前後とされています。

 富岡空襲は両トンネル内の被害者の他に100名近い犠牲者を出したとされる惨事(意図的な爆撃であり"事故"ではない)です。
これらのことは遺体が運び込まれた近くの慶珊寺(けいさんじ)にその和尚の善意で作られた「戦争犠牲者諸聖霊」という供養塔で知ることが出来るだけです。
なお、慶珊寺は直木三十五文学碑や旧居跡があり、富岡のお殿様である豊嶋家や明治維新の立役者大鳥啓介のお墓があることで有名な名刹です。

 富岡駅や人道トンネルの入口近くにその碑や表示板があるかと思って探しましたが見つかりませんでした。
昔は有ったような気がしますが・・・・・。
多くの民間人の尊い命が失われたその被害規模の大きさには注目すべきものがあり、後世に語り継がれなければならない"事件"であることは間違いないと思います。無防備な一般市民に数百発の爆弾が投下され、阿鼻叫喚のなかで無残にも多くの命が奪われたのです。
何故その事実を訴え、供養し、二度と起こさせないという宣言も含めた祈念碑を作らないのか不思議です。
 
 富岡地区には、文学碑や何かの記念碑は沢山あるのですが、政府やアメリカ批判そして厭な思い出にも繋がるものは避けたいようです。
これも事なかれ主義や忖度重視からくる現象でしょうか?


【中国上海にて中国での生活開始】
 ある容器の製造販売会社であるT社の上海子会社の建て直しのため、中国に赴任したのが2000年の4月です。
 これが、この先16年にもわたる中国生活のスタート点となったわけですが、私が、中国と関係する仕事をやり始めたのは1980年代中頃からです。
当時は、電子部品製造のフューテック㈱に勤務していましたが、中国へ進出する気は全くありませんでした。
政情も、治安も、そして送り出す日本人の生活も心配でした。
したがって、当時の中国とのかかわりは、中国政府が国産化を急いでいたVTRの部品製造プラントの輸出交渉だけでした。
一部は成約し実習生も迎えていました。実習には契約先工場のエリートが来日したのですが、経済的な格差からか、文化大革命終了から間もない為か、低開発国だなーとの印象が強かったものです。
各種交渉のため、中国各都市にも行きましたが、どこも、薄暗くどんよりとした空と、物乞いと売春の多いことだけが印象に残っています。

 電子業界のどこもが歩んだ道は、まず合理化・自動化によるコストダウン。そして首都圏から東北地方への工場展開。次は台湾・韓国・シンガポール・香港への進出、そして東南アジアへの進出によるコストダウンでした。中国進出は、その次のステップだったわけです。
現在の中国の位置づけは、市場を求め、更には世界の工場としての位置付けを求めて、電子業界だけでなく、あらゆる産業が中国に進出しており、その発展ぶりは凄まじいものがあります。しかし、当時の日系企業の多くは、安い労務費と労働力を求めて進出していました。
 
 私は、1990年から1999年までマレーシアで現地法人の責任者をし、会社の設立と立ち上げと縮小・中国展開をしてきました。それらを行うのに、主に中国系マレー人の幹部を使ってきました。中国系シンガポール人とも多数お付き合いして、中国人気質をおぼろげながら掴んでいたつもりです。
 その実績で、2000年より2004年まで、上海-蘇州-上海と3つの会社の再建と立ち上げを行ってきました。
そこで勉強したことを基に経営コンサルタントなどと大仰な仕事をその後11年間も続けてきました。
 企業に属した期間は短いものの、中国人(中国系含む)とのお付き合いは長く、よいところも悪いところも身近なところ(いわば内側から)から見るという貴重な体験がその後の仕事や人生に大きく役立っているのは勿論です。
 
 上海へ行ったのは、1986年にプラント輸出交渉で四川省への飛行機乗り換え地点として一泊したのが最初です。
 それから、14年後の2000年に初めて上海へ赴任したのですが、その間の変化は凄まじく驚くことばかりでした。
しかし、2000年以降の変化は毎年の1年間が、1986年からの14年間を上回るのではと思うほどの変化で、さらに驚いたものです。

【中国での初仕事は管理者の採用】
 私が最初に赴任した上海T社では、赴任した翌翌月の2000年6月に取締役社長に就任しました。
前社長R氏の経営手法があまりにも酷いため、私がR社長を補佐しながら立て直すというよりも早々に経営交代すべきということになったわけです。
上海T社の会長兼親会社のT社長は、R社長に日本への出張命令を出し、彼が日本へ着くなり上海T社社長の解任を通告したものです。
T社長が何故そんな面倒なことをしたかというと、R氏は親会社のT社長の弟である常務が直接採用し可愛がっていた子飼いだったからです。事前に解任通告すると何か工作されると心配したようです。
 R氏は、上海の現地法人経営者としては絶対に採用すべきではないといわれる典型的な人物でした。
上海で避けるべき中国人幹部採用の常識とは、①北京人は避けること、②官僚は避けること、③日本採用は避けること。
の3つと教わっていましたがR氏は全てが該当していました。
上海人と北京人の葛藤は東京と大阪の比ではなく、すさまじいですからね。
 
 私が上海へ赴任して最初に行ったことは、中国及び上海事情の学習です。
教えを請うた先は、日本国上海領事・東京銀行上海支店長・県人会や同好会など上海にある日本人の各種集まりへの参加です。
海外事情はマレーシア駐在で分かっていても、国や都市が違えば全く事情が変わりますので大変勉強になりました。

 当時の上海T社は、売り上げが固定費(総経費ではなく固定費ですよ!)の10%にも満たない超赤字状態ですからいくら節約しても効果がありません。
とにかく、如何に売り上げを伸ばすかが鍵ですが、そのための手は全く打っていませんでした。
 親会社の財務担当取締役から私に「赤字でも構いません。しかし、毎年数億円を送金し続けるという駄々洩れ経営だけは早く止めてください。お願いします」と何度も懇願されてしまいました。
日本から新製品の金型を早期に輸入し(将来は中国で作るとしても急ぐので取り敢えずは輸入)、大手日系企業へ売り込みをかけたかったのですが、当時の製品品質と管理状態では一流日系企業を相手にすることはとうてい不可能でした。
 製造も管理部門も全部門で、管理手法と言えるようなものは何もありません。また、技術指導に来ている日本人も技能以外は知らないので中国人には教えられません。
 全部門に管理者らしい者は、候補者も含めて一人もいなく、社長の下が直接 監督者見習いという会社です。
もちろん創業開始直後はそれでもよいのですが、創業して何年も経ち親会社へ借金を返す段階の会社に管理者不在では経営不可能です。
社内で育てたくても、その猶予時間もありません。待ったなし状態です。
 さっそく人材会社数社に連絡し課長候補を探してもらいました。
製造と営業そして品質管理、計画部門、事務部門の5人です。
賃金は勿論相場通り払いました。中国では相場よりも安い者はそれなりの者だということが明確だったからです。
時間はかかりましたが優秀な課長の5人は採用できました。
日本の常務は「あんなに高い給料を払えば誰でも採用できるよ。おれなんか一生懸命節約していたのになー」と影で言っていたそうです。
 
 既存の監督者(見習い)からも経営者との間に管理者が入ってコミュニケーションが容易になった、よき指導者が入ってよかったと喜ばれたものです。
 
 そして管理体制を構築しました。
 次は社員教育による意識改革と建物や設備の更新です。

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