メールマガジン

「今だから話せる佐藤のコラム 第14号」(初めての海外生活14)

┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2018.05.06   
┣━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第14号」(初めての海外生活14)をお届けいたします。

==========================================================================

◇「今だから話せる佐藤のコラム 第14号」(初めての海外生活14)◇

富岡とマレーシア進出前の歴史④
                              佐藤忠幸
 富岡川せせらぎ緑道では、あっという間に桜が終わり、ボタンも散ってしまいました。
今は、ハナミズキとツツジそして藤が真っ盛りです。今年は全てが早いですねー。
 最近あるお師匠から教わったお話しです。
「天然自然の働きは不思議で、気温と湿度を感じて自然と成長してくれる」
「桜は天然の温度計とも言われ、2月1日からの気温の累計が600℃で開花する。今年は暖冬だから例年よりも早く600℃に達するから早く咲くよ」と教わっていましたがそのとおりです。
 4月8日の町内花見大会は、例年だと早すぎることもありましたが、今年はまさに葉っぱだけでした。
桜は、冬の間はまるで枯れ木ですが、春に開花する一週間のためのエネルギーを蓄えてジッとしているのだそうです。
人間もそうありたいものです。いざという時の為に、じっとエネルギーを蓄えいざ出陣となったら爆発できるように。

 ボタンは隣町の龍華寺が種類も豊富で有名です。
例年だと4月下旬がピークですが、もう咲いているかもと13日に鑑賞に行ったら案の定、見事に満開でした。

 以前報告しました様にここ「横浜市金沢区富岡西」の歴史は激変しています。
今年から色々と資料を繰って調べたので、その④として戦後から簡単に報告いたします。
併せて、私が外国で暮らすこととなった経緯について報告いたします。
 
【横浜市金沢区と富岡町の歴史その④】
 全ての歴史というと長過ぎるので、今号は戦後を辿ります。
1948年 金沢区が磯子区より独立。
    今年は金沢区が出来て70周年を迎え各種行事が行われる。
1975年 在日米軍富岡倉庫地区跡に富岡総合公園開園。
1980年 富岡海岸の埋め立てにより巨大な工業団地と住宅団地が作られる。
1984年 佐藤が金沢工業団地のフューテック㈱へ入社。
1985年 佐藤が金沢工業団地近くの並木住宅団地にマンションを購入し仮住まい。
1988年 海の公園海水浴場がオープン。
1988年 佐藤が金沢区富岡西に土地を購入し家を新築する。
1989年 モノレール金沢シーサイドライン開通。
1990年 佐藤がマレーシアに赴任。
1993年 佐藤がマレーシアで交通事故に遭い首骨折し入院。
  一箇月後マレーシアから空輸、金沢工業団地内の横浜市立大学付属病院へ転院。
1993年 横浜・八景島シーパラダイス開業
1998年 横浜高校 甲子園大会春夏連覇。

 金沢区富岡地区は、明治から昭和初期までの避暑別荘地時代が第一発展期であり、高級別荘地の地位を捨てた海岸埋め立てで急激に発展成長しました。
それが本当によかったのかは疑問ですが、そのおかげで私も金沢区富岡に住むことになったわけです。

【金沢海岸埋め立て】
 横浜市金沢区は市域の南に位置し、約 30k㎡の面積の中に、およそ 20 万人の人が暮らしています。
 そして、森・川・海といった自然環境に恵まれており、さらに、鎌倉文化圏の特色を色濃く残し、鎌倉時代から近代を中心とする史跡の宝庫とも言われています。大学も2校あり野球で有名な横浜高校もある文教地区でもあります。
 しかし、市中心部から離れていることと平地が少ないことから人口も増えず経済成長も止まっていました。
軍基地や軍需工場建設のための海岸の埋め立ては昭和10年代に始まりましたが、本格的な埋め立ては、昭和46年からです。
富岡沖を中心とした金沢海岸725ヘクタール(220万坪)の大工事で、海側に工業団地、山側に住宅団地、中央に緑地帯が設けられました。

 もともと港北区綱島にあったフューテックも金沢産業団地の横浜電機精機工業団地に一画を求め、初めて自前の工場ビルを建てたのがここで昭和57年(1982年)でした。
 横浜市内の住宅地や商業地にあって工場拡張が困難な中小企業を積極的に移転誘致し、最終的には約1000社という大工業団地になりました。
 金沢産業団地には、化学工業・食品・機械金属・電機精機工業・機械工業・印刷業・運輸輸送センターなどが入り、各々組合や協議会を作って運営しています。
 各社は工場移転と同時に、騒音や空気や水の汚染などによる公害防止に努め環境に優しい工場に生まれ変わっています。
この他に大企業としては日発や三菱重工等が入り、公共施設としては産業廃棄物処理工場なども入りました。その余熱を利用した温水プールは私も毎週利用しています。
横浜市立大学付属病院も出来、私も数か月お世話になりました。

 なお、食品団地には、「鎌倉紅谷」「重慶飯店」「文明堂」「江戸精」などの有名食品メーカーが入っており、各々定期的に工場直販をしています。
例えば文明堂では香ばしい焼き立てカステラの切り落としなど、普通お店では買えないものも格安で買えて評判です。

【マレーシアに現地法人設立】
 1986年からアジア諸国を視察検討し、マレーシアに現地法人設立したのは1988年です。マレーシアを選んだ理由は以前報告したので省略しますが、当時のVTR関連企業としては珍しく早期の海外展開でした。
 海外展開した大きな理由は次の二つです。
第一は、VTR用映像ヘッド完成品組立て協力工場の二社購買化です。
第二は、日本本社の給料を東大生でも採用できるように上げたいということです。
 フューテック社は、数年前まで完成品組立ては協力工場一社に頼り切りで様々な遅れを取ってとっていました。このため社内でも組立てが出来るようにし、かつ協力工場の競争相手を作ったことは以前報告したとおりです。
ところが、協力工場の一社が労働争議その他の問題が起きて閉鎖してしまいました。その穴を社内だけでは埋めることは難しいということもあって、協力工場S社への依存度が急激に高まり、早急にもう一社協力工場を作る必要が出ました。どうせ新規に協力工場を作るなら発展途上国で安く作ろうということになって東南アジアに進出を決めたというわけです。
 当時のVTRのヘッド業界は日本の独断場であり、まだ海外進出した企業は有りませんでした。そのなかで中小企業のフューテックがマレーシアに子会社を作るということは、当時の大株主の猛反対にあって説得に大変苦労したものです。
反対の理由は「VTRヘッドは未だ海外進出する必要性は無い」ということでした。

 その様に反対されても、海外進出したい最大の理由は「馬鹿儲けしたい」ということです。
当時のVTRは日本の独壇場でしたが、それがいつまで続くのか、またVTRそのものが地球上にいつまで存続できるのかどうかも疑問に思いました。
 それらの不安を解消する唯一の対策は「次期商品の開発」で、それは「資金と人材」にかかっています。
1989年ごろある出版社から取材を受けた時「何故、今マレーシアへ進出するのか?」と聞かれ「優秀な開発者が欲しい。我が社のような中小企業でも、月給30万円払えば東大卒業生を採用できるだろう?マレーシアで安く作って日本へ還元し、その資金を作りたいのですよ」と答えたら大いに感心されました。ただし、私のVTR衰退説を株主が信用していなかったので、それは記事にしないでくれと記者に頼みました。
記者は記事にしたかったようですがね。

【VTRの想定より早い消滅】 
 VTRは普及すればするほど値段が下がり続け、アッという間に10分の1になってしまいました。
特に、台湾や韓国メーカーが日本から技術を買ったり盗んだりして生産販売し始めたら価格は急降下しました。
そのVTRに使われる各種部品は20分の1にまで下がってしまいました。
そのうちに、日本の固有技術だった家庭用VTRでありながら、日本だけで作るのがきつくなり、VTRメーカーも海外生産が始まりました。
VTRはもう日本独自の固有技術ではなくなったのです。
 日本が戦後アメリカのTVや家電技術を学び真似したことと同じことを韓国や台湾が行い、日本へ追いつき追い越そうとしたわけです。

 他社が日本で作っているのを、他社に先駆けてマレーシアで作って儲けようとしましたが、儲かったのは数年間だけでした。それでもマレーシアの日系銀行と仲良くなり(半分だまして)数億円融資させ日本本社へ送金して喜ばれたこともありました。
 マレーシア現地法人としては、必死に毎年原価低減しましたが、赤字にならない様にするだけで精一杯でした。
その内に、VCDやDVDが登場しVTRそのものが世の中から消えてしまいました。
価格崩壊もVTRの消滅も想定どおりでしたが、その時期は想定よりも5年は早かったように思います。
せっかくマレーシアに拠点を作ったのですが、その効果を発揮した期間は僅か5年間ぐらいだったでしょうか。
中小企業の哀しさで、業種転換のための資金も人材も確保する前に経営破綻してしまいました。
 でも、少しでも会社の寿命が延びたことはよかったと自己満足しています。
 
 日本を留守にしている間に、尊敬するS社長は退任し大株主出身のI社長に変り会社も縮小しました。
 (ご両人とも故人となってしまったことは寂しい限りです)
 1999年には、マレーシア現地法人を縮小し9年間の駐在を終えて帰国しました。
 
 フューテック㈱は2000年に退職しました。
まだ57歳でしたので再就職先を探しましたが、当時は日本での職場は極めて少なかったように思います。
外国勤務ならマレーシアを希望しましたが、各社が競って拠点を中国に移している最中でマレーシアに仕事は有りません。
 そんな中、東京のT社に入社したのが2000年3月です。
上海にある子会社の再建を託されたのですが、ホンノ数年ならばと受けさせて頂いた次第です。
そして2000年は電子工業界から足を洗った年でもあります。
次号からはその話題と中国での企業活動を中心に報告したいと思います。

 今はあらゆる植物の芽吹きの時期でありますが、実際にいつ芽が出るのか、いつ華やかに咲くのか具体的には分かりません。
その時季にしっかり芽を出させ、花を咲いてもらうために「土を耕し、ときを逃さず種をまき、じっと待つ」この備えが大切だと感じる今日この頃です。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
佐藤忠幸/Sato Tadayuki 
TEL&FAX 045-771-1745 
MP 080-5467-4187
E-Mail: tada-sato@mvb.biglobe.ne.jp
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃発行元:公益社団法人いわき産学官ネットワーク協会(ICSN)事務局  
┃住  所:〒970-8026 福島県いわき市平字田町120番地
┃     LATOV6階 いわき産業創造館内
┃TEL    : 0246-21-7570      FAX    : 0246-21-7571
┃E-mail : iwaki-sangakukan@bz01.plala.or.jp 
┃URL   : http://www.iwaki-sangakukan.com
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃※配信の登録、及び解除については、こちらからどうぞ↓
┃ http://www.iwaki-sangakukan.com/m_magazine/
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

公益社団法人いわき産学官ネットワーク協会
〒970-8026 いわき市平字田町 120番地 LATOV6F いわき産業創造館内
TEL:0246-21-7570  FAX:0246-21-7571 E-mail:iwaki-sangakukan@bz01.plala.or.jp
Copyright (C) ICSN All rights reserved.