メールマガジン

「今だから話せる佐藤のコラム 第12号」(初めての海外生活12)

┏━┳━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2018.02.25   
┣━┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第12号」(初めての海外生活12)をお届けいたします。

==========================================================================

◇「今だから話せる佐藤のコラム 第12号」(初めての海外生活12)◇

富岡とマレーシア進出前の歴史②
                           佐藤忠幸
 梅の時期となりました。
富岡川せせらぎ緑道に接するお宅の多くで植ええられている白梅や紅梅がほぼ満開となり、私達の目を楽しませてくれています。
枝垂れ梅は3月からでしょうか。でも開花時期の違いは日照時間などによる差なのか品種の違いによる差なのかは不明です。
我が家の梅も植えてある位置により3から8分咲きと随分差が付いています。
嬉しいことにメジロのつがいが梅をつつきに来てくれました。
まだ鳴き声は聞こえませんが〝春近し"を実感しました。

 ところで、ご近所で昨年末から6軒もの住宅工事をしています。
1軒は増築工事、もう1軒は古いお宅を壊してアパート建築、残りの4軒は建売住宅です。
建売住宅は、元々一軒だった土地を再造成し4軒の住宅にしたものです。
この4軒はそれぞれ4千数百万円ですが、驚いたことにあっという間に完売です。
 アパートは既に我が町内だけ4軒も建っていたのでもう建たないかと思っていたのですが・・・。
今工事中のアパートは1階と2階それぞれ4戸の立派なアパートですが、以前記したように我が家近辺の全てが坂道で通勤通学が大変です。
そのアパートは道路から更に階段を20数段ほど登った所にあるので入居者が居るのかなーとつまらない心配をしています。

 この周辺は70数年前に京浜急行が造成した富岡第二期分譲住宅です。
私が買ったのは30年前ですが、その後当地域の老人化は急激に進んでいます。
しかもお子さんは独立したご家庭と住宅を別の所に持っていますので古い一軒家は持ち切れず売りに出されることが多いようです。
昔の分譲地ですので土地が100坪前後と、横浜としては広いため(坪単価は安いものの)価格が高くなり現在のサラリーマンには手が出ません。
そこで、多くのお宅が不動産屋やデベロッパーに売却し、そこに2軒~4軒の建売住宅を建てて売るという訳です。
大きなお宅が現代風の建売住宅に変るのは寂しい限りですが、若いご家族が住まわれお子さんの声が聞こえるのは嬉しいことです。

 以前報告しました様にここ「横浜市金沢区富岡西」の歴史は短く、しかし激変しているようで今年から色々と資料を繰って調べたので、その2として幕末から簡単に報告いたします。
併せて、私が外国で暮らすこととなった経緯について報告いたします。
 
【横浜市金沢区と富岡町の歴史その2】
 長過ぎるので、今号は幕末から昭和10年までを辿ります。

1865年 金沢藩藩校「明允館」開校。
1865年 小泉又次郎(小泉純一郎元総理の祖父)金沢大道に生誕。後に横須賀市へ転居。
1877年~1890年頃 富岡村にある伊藤博文の仮住まい近くに井上薫が建てたのに続き三条実篤などの明治の元勲が次々に別邸を建てる。
1881年 日本の海水浴場のさきがけ富岡海岸にヘボン博士来訪。
1887年 大日本帝国憲法の草案起草。
1889年 明治22年市制町村制施行に伴う合併で金沢村が成立。
1899年 野口英世、入港した船員からペスト患者を発見診断し、国内への蔓延を水際で阻止。
1930年 湘南電車(湘南電気鉄道/のちに京浜急行に合併)が誕生。
1933年 直木三十五 初めて自分の家を富岡に建てる。
 改めて近世の富岡史をひも解くと、美しい海岸線を利用したリゾート地或いは別荘地という面が非常に強く、それが釣り好きの私の憧れた居住地でもあったわけです。
またそれを促進したのが京浜急行電鉄の誕生です。

【富岡に直木三十五が住む】
 1月や2月となると直木三十五を思い出します。
何故なら1月に直木賞の受賞者(今年は「銀河鉄道の父」を書いた門井慶喜)が発表され、もう直ぐ帝国ホテルで贈呈式が行われるからです。
 ところで、直木三十五が富岡に家を建て、彼のお墓も文学碑も富岡にあることはご存知ですか?
彼は一生で唯一、自身の家を建てたのかこの富岡です。
それまで全て借家住まいでしたが、やはり死を意識したのか、横浜市金沢区富岡東にある慶珊寺の裏山の土地を借りて自宅を建てます。
昭和8年5月、直木は慶珊寺を訪ねました。この寺と周囲の環境がいたく気に入り、寺の北側後方の広大な土地を借り受け東京から大工呼び寄せ張り切って家を建てました。
しかし翌年2月に43歳の若さで亡くなってしまったのは残念至極な話です。
その旧居の近くすなわち慶珊寺の左側の坂を上っていくと、"藝術は短く 貧乏は長し"と彫られた「直木三十五文学碑」があります。

 余談ですが、慶珊寺は「孫文」が大正2年の上陸地点としても有名で「孫文先生上陸之地記念碑」がお寺の門前に建てられています。
しかし、実際は横須賀に上陸し、宵闇に隠れて富岡を通り過ぎて東京へ向かったというのが通説です。

 直木三十五のお墓は当初は家のあった慶珊寺に作りましたが、本人の「禅宗の海の見える墓地」という遺志に沿って昭和57年に禅宗の長昌寺へ改葬されました。
慶珊寺にも直木三十五を慕った作家のお墓がいくつか建ったのですが、肝心なご本人が改葬してしまったので取り残されてしまいました。
さぞやお寂しいことでしょう。
長昌寺には、直木三十五の墓と直木賞作家の胡桃沢耕史の墓が並んでいます。
その点胡桃沢耕史は運が良いというかちゃっかりしているなーと感じました。

 ところで、直木三十五の名前の謂れはご存知ですか?
姓は本名「植村」の「植」の字を分解して「直木」と付け、名は31歳の時に作家として目覚め「三十一」と名乗りました。以降毎年1才齢をとるごとに名前を変えていましたが面倒だということと、33や34という数字の縁起が悪いと言われて「三十五」に変えてからは歳とは無関係となりました。

【フューテック㈱もモノづくりを知らない】
 外国で暮らすこととなったいきさつを報告いたします。まずはそのきっかけとなった経緯です。
FT技研社の工場を閉鎖し、後処理を終えたので、今度は昔の仲間と会社を作ろうと思っていました。
FT技研のS社長から、兄弟会社であるフューテック㈱を横浜市の金沢工業団地に作ったばかりなので「佐藤さんが独立する目途が立つまでの間だけでも見てくれないか」と言われて「ではほんの数か月」と片手間気分で応援に通い始めたのが1983年です。
元々フューテックはFT技研のCVC方式VTR用の映像ヘッドを作るための会社です。
しかし、金沢工業団地に新工場が出来た時にはFT技研のVTR生産は終わっており、VHSかベータ―方式のVTR映像ヘッドを作りVTRメーカーに売り込む必要がありましたが、VTRメーカーの大部分は、重要部品の映像ヘッドは社内で生産しており、販売余地は僅かでした。
それも大手部品メーカーが必死に作っている状態で中小企業のフューテックの入り込む隙間は有りません。
仕方なく台湾や韓国に売り込もうとしていました。
 兄弟会社向けの生産から外国のお客様向けと変わったのですから、品質改善と共に大幅に原価低減しなければなりません。
しかし、FT技研もフューテックも研究開発型企業でしたので「ものづくり」は下手くそで非常に原価高でした。

 フューテックに行ったら、あちこちの壁に「20KP作戦」というスローガンらしきものが貼ってありました。
これは何かと聞いたら「映像ヘッドを早く20,000ペア作りたいからです」とのこと。
技術的なことは省きますが、映像ヘッドは右用と左用の両チャンネルがペアでなければ使えません。だから20,000ペアという目標が設定されていたのです。
 暫くの応援としては格好のテーマだと思いそれを達成すべく動き出しました。
まず製造各グループの責任者の話を聞きました。
製造工程は大きくは5つあり責任者は5人います。
それぞれに次の質問を用意し、各工程の実情を聴きだしました。
 1、自工程の加工(生産)能力は?(人、設備)
 2、自工程の優れたところは?
 3、自工程の問題点・課題は?
聴取結果は、品質(歩留り率)を除いては何も問題無いことが分かりました。
工程ごとの歩留り率が低いため仕込み(投入)数が多くなければ出来高の保証が出来ないこと、そして工程ごとの製造能力バランスが悪いため中々目標の達成が出来なかったのです。
 まずはスローガンの生産数字目標はクリヤーしようと、作業者の移動を数人行って工程能力バランスを取ったら数日で20,000ペアという生産目標の達成ができました。
 S社長はじめ幹部諸侯が驚いていましたが、数字を掴み現場の実態を掴むこと、幹部の意識と知識を掴むだけで多くの課題は達成できるということを自覚してもらいました。
 
【改善活動開始】
 次は最大のネックである、品質の改善です。
前記の各工程責任者からの事情聴取では、歩留りが低いという品質問題があることは承知しているものの、自分の工程に問題があり管理者の自分が悪いという認識は殆ど有りませんでした。
 その原因はデータのとり方と、それを死蔵させ共有していないということにありました。
歩留りとは何個投入して何個出来上がったか、即ち100個投入して20個完成し、80個は廃棄されたとなれば歩留り20%です。
当社で作っていた部品は修理が出来ないので不良率というよりも歩留りという表現が適切でした。
数字は忘れましたが全体の品質(歩留り)イメージは下記の如くです。
《A工程歩留り80%×B工程歩留り90%×C工程歩留り85%×D工程歩留り90%×最終検査通過率(歩留り)80%=総合歩留り44%》
すなわち、各加工工程の歩留りは極端に悪いという数字には見えませんが、全体で考えれば歩留りはたったの44%、56%もの材料と時間・費用を捨てているのです。
これでは生産計画も販売計画もたちませんし、海外で売れる原価となる訳がありません。
このデータをグラフ化して、目標と改善計画を各責任者に作ってもらいました。
議論した結果「半年後には総合歩留りを90%」にするという目標になりました。

 その数字を聞いて一番驚いたのはS社長でした。
過去数年間もかかってやっと40%を超してきたばかり、今も毎日のように開発や技術メンバーを中心に改善打合せをしているのに・・・・・。
私の判断では、現状の不良原因の多くは技術的な問題ではなく製造管理や品質手法の問題であり各管理者の意識改革だけで改善できる。総合歩留りが95%を超えるためにやっと技術部や物理やのアイデアが必要だというものでした。
 さっそく、製造の管理監督者の基本であるQC七つ道具や5W追及活動{何故(Why)・何故(Why)の繰り返し自問自答}などの学習会をしながら意識改革を図り、グループごとに活動を開始しました。
 幸いにして私はアルプス電気時代にそれらを学んでいたので教えることは容易でした。

 各責任者は肩書のない単なる応援の私でも信頼し付いてきてくれましたが、中途半端の立場ではいけないと思い、S社長に「ここへ入社したい」とお願いしたら「よかった!作戦成功!」と喜んでいただけたのが印象に残っています。
そして正式に入社(FT技研から転籍)し、フューテックの改善活動が開始されました。
記憶では半年もかからずに目標達成できたと思います。その結果、同じ働き・労働時間・費用で、生産量が倍増しました。

 そしてこの活動が、中小企業のフューテックでも海外への進出が可能となり、1990年代に入って多数の会社が消えた電子部品業界においても今世紀まで生き延びた大きな原点となったと思います。
 
 またまた長文で申し訳ありません。この続きは次号で。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
佐藤忠幸/Sato Tadayuki 
TEL&FAX 045-771-1745 
MP 080-5467-4187
E-Mail: tada-sato@mvb.biglobe.ne.jp
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃発行元:公益社団法人いわき産学官ネットワーク協会(ICSN)事務局  
┃住  所:〒970-8026 福島県いわき市平字田町120番地
┃     LATOV6階 いわき産業創造館内
┃TEL    : 0246-21-7570      FAX    : 0246-21-7571
┃E-mail : iwaki-sangakukan@bz01.plala.or.jp 
┃URL   : http://www.iwaki-sangakukan.com
┣━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
┃※配信の登録、及び解除については、こちらからどうぞ↓
┃ http://www.iwaki-sangakukan.com/m_magazine/
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

公益社団法人いわき産学官ネットワーク協会
〒970-8026 いわき市平字田町 120番地 LATOV6F いわき産業創造館内
TEL:0246-21-7570  FAX:0246-21-7571 E-mail:iwaki-sangakukan@bz01.plala.or.jp
Copyright (C) ICSN All rights reserved.