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「今だから話せる佐藤のコラム 第10号」(初めての海外生活10)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2017.12.27   
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第10号」(初めての海外生活10)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第10号」(初めての海外生活10)◇

江戸城刃傷事件とマレーシアの魚釣り
                                佐藤忠幸
 いつの間にか師走と言われる12月となってしまいました。
本当に一年は短いなーと感じるこの頃です。
近くの富岡川せせらぎ緑道の花木は赤く咲く山茶花(さざんか)のみとなり、大川栄策の「さざんかの宿」を懐かしく思い出しましました。
「くもりガラスを手で拭いて あなた明日が見えますか 愛しても 愛してもあ~ひとの妻 赤く咲いても冬の花 咲いてさびしい さざんかの宿~」

 東京深川の富岡八幡でくだらない事件が起きました。
支店(宮)のくせに儲け話や財産問題で人殺しをするとはもっての外、廃社するか一族を神社関係者から排除すべきです。
そして本店(宮)の「横浜市金沢区の富岡八幡宮」へお参りに来てください。

 ところで、12月というと、師走でありクリスマスを思い浮かぶかもしれませんが、もう一つの大事な行事は14日の「義士祭」です。
もちろん、赤穂義士が吉良邸に討ち入ったと言われる日です。
それにちなんだ富岡の話をひとつ送ります。
もうひとつの話題はマレーシアの釣りです。
私が、横浜市金沢区富岡に自宅を持ったのは、東京湾に面した堤防や漁港まで車で10数分で行けるという、釣り好きの私にとっての地の利が理由だからです。(そのため駅から歩くのが大変ですが)

【江戸城刃傷事件の走り、富岡のお殿様】
 浅野内匠頭が起こした江戸城刃傷事件は、愛知県出身の私にとっては複雑な感情を持ちました。
何故なら憎まれ役の吉良上野介義央は、地元の愛知県吉良町では名君で知られたお殿様だったからです。
ところで浅野内匠頭は、刃傷事件を起こした罪よりも、失敗した罪の方が大きいと思います。
あの時江戸城できちんと吉良上野介を討ち取っていれば仇討ちは不要であり、12月14日の討ち入り事件は起きなかったと思うのです。
そうなれば、数十人(吉良方17~19名、赤穂方切腹46名)の犠牲者を出さずに済んだのでしょう。
江戸城刃傷事件は7件も起こされていますが、失敗したのは浅野内匠頭だけです。

 実は、最初の江戸城刃傷事件そして後に起こる刃傷事件の模範となったのが、我が町横浜市金沢区富岡町のお殿様.豊島明重が起こした事件です。
その事件は寛永5(1628)年8月10日に、老中井上正就を相手に起きました。
 富岡(1700石)のお殿様 豊島明重は縁談のもつれから(春日の局が強引に薦める縁談に井上がなびいた為お家の面目がつぶれたとして)江戸城内で刃傷事件起こしました。
井上正就は「武士に二言は無い」と豊島に討ち取られ、止めに駆け寄った青木忠精に背後から抱えられた豊島は、脇差で自分の腹もろとも青木を差し貫くという壮烈なものでした。吉良義央に軽傷しか与えられなかった浅野事件とは大違いです。
14歳の息子継重も4日後に切腹となり、豊島氏はここに断絶しました。 
豊島明重が進めていた井上正就の長男との縁談相手は大阪奉行の嶋田直時の娘で、この嶋田も責任を取って三カ月後に切腹しました。
しかし、浅野事件と異なり、合計5人の死者で済んでいます。
これらはまだ、戦国武将の名残「武士の一分」がある有名な話で、柴田錬三郎の小説「孤剣は折れず」はこれを基に描かれています。

 富岡町にある「慶珊寺」は豊島明重が両親の菩提を弔うために建立したという由緒ある真言宗御室派のお寺です。慶珊寺にある豊島明重父子の供養塔は、他家に嫁いだ姉が建てた五輪塔でなかなか立派なものですので、是非お参りを。

 豊臣秀吉の天下統一とともに徳川家康を関東に移封しましたが、江戸に入った家康は、在地旧勢力の懐柔策として名家の子孫を積極的に登用しました。
豊嶋明重には、その父頼重の功績を讃える意味も込めて富岡の1,700石を与えたのです。
その後、気の毒な事件によってお家断絶に至り旗本のままで終わりました。
したがって富岡にはお城がなく、陣屋跡地が残るだけということが残念です。

なお、東京都豊島区は豊島氏のお屋敷があったことに由来する地名です。
    

【マレーシアの釣り】
 私の若かりし頃の趣味は魚釣りです。
だから終の棲家としてここ横浜.富岡を選びました。
元お世話になったF社時代では「私の定年は55歳だ、だから早く私を追い越せ」と後輩に度々言っていたものです。
何故なら元気なうちの55歳に仕事を辞めて釣り船屋の親父になることが夢だったからです。
釣り船屋で生活出来るかどうかは疑問ですが、住居選定基準に釣りに行き易いことが条件となるほど釣りが好きだったことは確かです。
したがって、釣りは毎週のように行っていました。
海では砂浜や岸壁での投げ釣りや探り釣り、乗合船で沖合に出ての各種の釣り、そして渓流釣りなど何でもやりました。
会社でも同好会を作り年に数回船を借り切って楽しみました。
釣り道具は、釣るものや場所・方法によって変わるため大量にあります。
リールだけでも電動を含めて20以上あるでしょう。竿など数えきれません。

 そういう訳ですから、趣味の上からもマレーシアへの赴任は絶対に嫌でした。
直ぐに帰国するつもりですから釣り道具などは持って行きませんし、仕事一図で釣りに行く気もありませんでした。
しかし、ある期間過ぎたら、私の釣り好きを知ったローカル役員などから釣行のお誘いが度々ありました。
では一度行ってみようかと釣り道具屋へ案内してもらいました。
ところが、当時のマレーシアは趣味の釣りなんて贅沢な遊びのようで、釣り具専門店はありませんでした。
大きな外資系デパートか、観賞用魚屋の一画にちょこっと売っているだけで、まともな道具はなく最低限必要なもののみ買いました。
でも釣りは一回行ったらはまってしまい、日本本社の総務課長に私の留守宅へマレーシアへ送る道具を取りに行ってもらいました。
総務課長も釣り同好会メンバーですので、どの道具を送るべきかと適切な物を選んでくれました。
数週間後には毎月送って来る部品に混じって釣り道具がごそっと入っておりローカルスタッフが驚いていました。同梱の部品は免税品、それと一緒に送るとは無茶なことをしたものです。

 最初に行ったところは、マラッカ海峡に面しているクアラルンプール港です。
多少は釣れたような記憶はありますが海がひどく臭く、釣った魚は食べる気がしませんでした。

 次は、やはりマラッカ海峡に注いでいる河にボートで行きました。
マングローブの根周りに色々な魚がいるという話だったのですが、全く釣れず時間が経ったら潮がひいてしまいボートを引き上げざるを得なくなりました。
干満の差が数メートルもあるのには驚きましたが、マングローブの茂みは見事でした。

 ある時はマラッカ海峡の真ん中でエイを狙いました。
さすがにこの時は大漁でしたが、エイだけは小型しか釣れませんでした。
それを見かねた船頭が1メートル以上のエイを釣ったのには驚きました。
釣った魚は、いつもは皆で分け自分たちで調理しますがエイだけはどうしてよいか分かりません。
しかたなく馴染みの海鮮料理屋へ持って行って差し上げたら大喜びされ、その日は無料で飲み食べ放題でした。
エイは少々癖がありましたが美味しかったことを覚えています。

 海釣りの圧巻は、南シナ海での釣りです。
すなわちマレーシア東海岸での沖釣りです。
カジキやシイラそしてロウニンアジ、イトヒキアジなどの大物狙いですが、大物はかからず皆30センチぐらいの魚ばかりでした。
しかし、ちょっと油断していたら大物がかかり竿を海中に持って行かれてしまいました。
当時の、マレーシアには竿を保持する道具が無かったのですよ。
ロープなどで竿を船につないでいればよかったのですが、ちょっと油断してよそ見した途端にやられ、ショックでした。

 淡水魚釣りでは、ケニルダム湖の渓流釣りが印象に強く残っています。
ケニル湖(Kenyir Lake)は、マレー半島東北部の山奥にあるマレーシア最大のダムでクアラルンプールから自動車で一晩かかってやっと着きました。
着いたのはまだ暗い明け方でしたので、草むらで仰向けに寝ましたが、満天の星空に興奮して寝つけませんでした。
あまりにも星が多くて星座がどれだか全く分かりませんが、天の川だけは明確に分かりました。
あれほど輝く「銀河」という名に相応しい天の川は後にも先にも見たことがなく感動しました。
そこを無数の流れ星が斜めに走っていました。
そんな星に夢中になっていたら一つの光の玉がゆっくりと進んでいるのを発見しました。
最初は飛行機かと思ったのですが光の形と光り方進み方が変なので、一緒に行ったローカルスタッフに聞いたら人工衛星だとのことです。
彼らが見たのは数回目だと言うので信じましたが、私が人工衛星を見たのは初めてですのでもう寝るどころではなくなりました。

 釣りは湖に注ぎ込んでいる渓流で行いました。
大した釣果は無かったものの、水に浮かぶ森林に流れる渓流の景色は神秘的でした。
全く釣れず景色に見とれていたら、いきなり大魚が喰ったらしく、ズルズルと竿を持って行かれたことが強く印象に残っています。
その晩は高原のホテルに泊まりましたがまるでバラック小屋でした。
シャワーは水しか出ないので涼しい高原としては辛かったですが、食事は魚料理が中心で滅茶苦茶美味しかったです。
なお、この高原には野生のアジアゾウがいるとのことでしたが見たのはフンだけでした。

 釣り堀は、1995年以降にボツボツと出来始めました。
しかし、釣り堀管理のノウハウをまだ知らない所ばかりでした。
釣り堀が出来たばかりは魚が慣れていないのでバカ釣れでしたが、数日経つと魚が釣りに慣れてしまい、魚が居ても全く釣れなくなりもう行かなくなりました。

 其の他マレーシアでの釣りは随分と楽しんだものです。
当時のマレーシアの釣りは、漁師の仕事か金持ちの道楽だけでした。
そういう時代に港や岸壁で、日本人がしかも日本の釣り道具で釣っているとなると珍しがられて直ぐに人が集まったものです。

 私のマレーシア駐在が長くなってきたら、本社からの定期便に釣りに関する新聞切り抜き記事が毎週の様に入ってきました。
ある時は立派なタイの魚拓を送ってきました。
魚拓に記載してある「釣り人」を見たら釣り同好会のメンバー!羨ましく思ったものです。
色々送ってくれて親切だなーと喜び、一時帰国した時に関係者へお礼を言ったら「あれは里心を出して帰国したがることを期待して送ったのですよ」とのことでした。
魚拓も私の帰国心を促すために釣り船屋から適当な魚拓を買って、偽の釣り人を書き加えた代物だということは随分と後から知りました。


 当時の日本本社は、私がマレーシアに赴任後は、物理ヤの社長が技術と営業を、評論ヤの副社長が工場とリストラを、事務ヤの専務が資金繰りをと、分業で統括していました。
しかし、現場とは連携もなく遊離して事実上の無管理状態だったようです。
現代日本の大企業と同じく官僚主義・形式主義・経費節約第一で手抜き(やったフリ)のまん延。
新商品も新規顧客開拓もなく経営は尻つぼみ状態でした。

 釣り同好会メンバーは各部門の管理監督者ばかりですので会社の将来を心配して、この状態から脱皮させるのには佐藤が必要だということで、私を何とかして早急に戻したかったようです。
残念ながら諸事情があってその期待には沿えることが出来ませんでした。

 それらの事情は次号以降にて報告します。

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