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「今だから話せる佐藤のコラム 第7号」(初めての海外生活7)

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┃◆┃(公社)いわき産学官ネットワーク協会News  2017.09.30   
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┃  「上海レポート」でお馴染みの佐藤忠幸氏より
┃ 『今だから話せる佐藤のコラム』が届きましたのでお知らせいたします。

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 中国での会社設立・販路拡大等を支援している、
(公社)いわき産学官ネットワーク協会アドバイザーの佐藤忠幸氏から
「今だから話せる佐藤のコラム 第7号」(初めての海外生活7)をお届けいたします。

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◇「今だから話せる佐藤のコラム 第7号」(初めての海外生活7)◇

        富岡周辺とマレーシアの日本人墓地
                              佐藤忠幸
 秋分の日も過ぎてすっかり涼しくなりました。
日中は30℃近くの日もありますが、朝夕は過ごしやすくなりました。
そのためご近所の彼岸花が真っ赤な花をつけ始めました。
この花はお墓地に咲いていることが多いため等で縁起が悪いと嫌いな人もおられますが、私は好きな花です。
サルスベリは急激に色が衰え散り始めましたが、ムクゲは相変わらず衰えをしらず次から次へと咲き誇り、驚くほど長く楽しませてくれます。

【富岡川せせらぎ緑道】
 最近は最寄り駅(京急富岡)や病院へ行くときは、散歩を兼ねて極力歩くように努めています。
少しでも脚力の衰えを止めようとの努力です。
一昨日と昨日(9月23日と24日)は地元富岡八幡宮の秋祭りです。
京急富岡駅周辺は、お神輿やお囃子の山車が集まり大変な賑わいでした。
近くの町内集会所は、富岡西部地区のお神輿休憩所で、酔っぱらった青年とお囃子の少年がハッピ姿でたくさん集まりワイワイやっていました。
私も13歳の愛知県豊橋時代、お祭りの山車に乗り大太鼓を叩いたことを懐かしく思い出したものです。

 ところで、富岡八幡というと東京深川の八幡様が有名ですが、本家はここ横浜市金沢区の富岡町にある八幡様です。
建久2年(1191)源頼朝が、鎌倉の鬼門にあたる富岡に鬼門封じとして造営し、摂津西宮神社の蛭子尊の分霊を勧請したのが始まりというそうで、鎌倉八幡宮と同じ頃に創立の古社です。
また、安貞元年(1227)に富岡に八幡大神が現れ、自分を祀るように託宣があり、以後八幡宮となったとも伝えられています。
応長元年(1311)の大津波の際に、富岡を守った八幡様として「波除八幡」(なみよけはちまん)ともいわれました。
その話を聞いた徳川家康が江戸で水害に苦しんでいた深川周辺を治めるため、分社を依頼して作られたのが深川の富岡八幡です。
すなわち深川富岡八幡社は京急富岡にある八幡社の支店の訳ですが、そんなことを知っているのは地元でも年寄りだけです。

 自宅から富岡駅へ行くのには、若い人なら徒歩10分程度です。
しかし、帰りすなわち、駅から自宅へ戻る時は15分前後かかります。
(私の衰えた足では往復ともその倍程度かかります)
横浜特有の坂道ばかりだからです。
函館、横浜、横須賀、神戸、長崎、平戸など幕末から明治にかけて外国向けに開港した港町は坂道ばかりです。
外国の大きな船が入れるような天然の良港は急深の湾や入り江に作るからです。
平野地帯から急深の港が出来るはずはありませんね。
そうなれば当然港の周辺は丘陵地帯となり、坂道ばかりとなる訳です。

 若いときは坂道も大して気にならず、今の家を建てたのですが74歳の現在では立地選択に失敗したかなと思います。
しかし、考えてみれば歩くというリハビリが出来ることはラッキーと思うように努めています。
そのため、駅方面へ行く時と帰りはコースを変えています。
行きは商店街通りの北側すなわち坂の中腹を横切る道を通ります。
大部分が住宅街で最後は商店街を歩き駅周辺に着くわけです。
住宅街ではそれぞれのお庭の花や樹木が綺麗に手入れされ華やかさを競っています。それぞれの家の生活感がよく見られて飽きません。

 帰り道は、商店街通りの反対、南側の低地を歩きます。
横浜市が道路整備のため富岡川を暗渠にした代わりに、水の一部を地上に流し「富岡川せせらぎ緑道」というせせらぎに面した歩道が作られました。
その両岸には「緑道」の名前通り各種の樹木や草花が植えられ、周辺住民の手入れもよろしくしっかりと四季を楽しめます。
そこをゆったりと時間をかけて歩きます。
横浜という大都会に住みながら、このコラムで毎号のように季節の花のことを書けるのはそのおかげでしょう。
自動車で往復していた時には見落としていたことも歩くことで随分と気が付きました。
お花のことをレポートするなんて昔では考えられないことです。

 富岡町は、昭和初期迄は日本有数の別荘地でしたから報告すべきことが沢山ありますが後に別途報告いたします。
 話題を転じ、私がマレーシアで暮らした9年間の体験を報告いたします。

【不思議な日本人墓地】
 マレーシア本土に日本人墓地はあちらこちらにありますが、私はクアラルンプールとマラッカのお墓地には数回お参りに出かけました。
埋葬されている方の大部分が大正から昭和にかけてマレーシアで暮らした日本人男性で、次に多いのが出稼ぎに来たと思われる九州からの女性です。
形は普通のお墓地であり、軍人も民間人も同じところに埋葬されていました。
どのお墓地も丁寧に清掃され雑草も抜かれていました。
後で聞けば、地元の日本人会が定期的にそれを行っているそうで、ほっとしました。

 ところが、ボルネオ島の北部サンダカン(Sandakan)の、ある日本人墓地は異様な雰囲気でした。
何故なら墓標の全てが日本に背を向けて建っていたからです。
そのお墓地から見ると日本は北東方向ですが、全ての墓標が日本の反対方向すなわち南向きに建っているのです。
そして埋葬者の全てが女性でした。

サンダカンはマレーシア・サバ州にあり、州都コタキナバルに次ぐ第二の都市ですが、周囲にはマングローブやオランウータンの保護区がある農業と観光だけで成り立っているような小都市です。
百数十年前の明治・大正期には、日本への南洋材(ラワン材や黒壇、チーク)の輸出基地で、多くの日本人が暮らしていました。
1930年代には、木材の輸出量が年間180,000 m3となり、世界最大の南洋材輸出港でした。
戦後も木材を買いつける商社員が常駐していたそうですが、環境破壊や森林資源の枯渇が問題になるにつれて貿易量は減少し、今では町で日本人の姿を見かけることはほとんどありません。

 私が異様に見えたサンダカンのお墓地は、昔の娼館の女将が造った日本人墓地です。
明治から大正にかけて生活のために身を売られてきた海外売春婦(からゆきさん)が葬られていたのです。
「からゆきさん」のお話は、映画「サンダカン八番娼館 望郷」 (出演)田中絹代、栗原小巻、高橋洋子、(監督)熊井啓、原作:山崎朋子(1974年作)で有名です。
明治・大正期のサンダカンには、日本人の経営する女郎屋が9軒もありました。
ここで働く女性の多くははるばる九州の島原や天草などから売られてきた女性、というよりも少女です。
映画の主役も9歳で売られ13歳から客を取らされていたそうです。
中には騙されてきた女性もいたようですが、彼女らの多くは生活に苦しむ家の犠牲となって売られてきたのです。
しかし、悲劇は借金を返した年期明けからも続きます。
今日から自由の身だと、意気揚々と国に戻っても家族・親戚の誰からも歓迎されず、むしろ「からゆきさん」が一族にいることを周囲に知られたくないと、冷たくあしらわれていました。
このため、帰国者の多くは地元には住まず、大阪などの都会に出たり、名前を伏せてひっそりと暮らしたりしていました。
映画もその女性が主役です。
中にはサンダカンに戻った女性もいるとか、とにかく可哀想な話が一杯あります。
そういう「冷たい日本」に背を向けたくなる気持ちはよく分かります。
映画なり小説なり今でも見られますから是非一度ご覧ください。

 主に昭和時代に当地で亡くなられた日本人のお墓地は他に大規模なものがあります。
これはクアラルンプールやマラッカのものとほぼ同じお墓地です。
 注目すべきは、第二次世界大戦中に日本軍の占領下となったための被害者の慰霊碑がいくつかあることです。
その代表が「戦争記念公園」です。
1944年9月、戦局の悪化にともない、日本軍は当時サンダカンに収容していた連合国軍捕虜を、より危険の少ないキナバル山麓に移動させるべく、炎天下の街道200Km以上を無理やり歩かせ、出発時2400人いた捕虜の大半が亡くなられたという事件がありました。
インドやフィリッピンなどに於ける作戦と同様の無謀な作戦をここでもやったということです。
 この死の行軍の記憶を留めるために戦争記念公園が作られたのです。
公園は、当時の捕虜たちの国籍にちなんで、イギリス、オーストラリア、ボルネオを代表する3つの区画に整備されています。
中国系マレー人のお墓地は?
中国系はこの死の行軍とは別に大量に殺戮されたので、その慰霊碑が「1945年5月27日殉難華僑記念碑」という名前で作られているそうです。

 ボルネオ島というと、東南アジア第一の名峰キナバル山(4095m)とオラウータンそしてジャングルツアーが有名ですが、それだけの処ではないのです。
マレーシアに限らず、東南アジア諸国の今では、何処も日本人を暖かく迎えてくれますが、その陰にはこのようなお話が一杯残っている事実は承知の上でお出かけくださいね。

 1980年代のマレーシアは、アジア随一の親日国でした。
それがマレーシアに子会社を作った最大の理由でした。
しかしマレーシアへ行き、住んでみて思ったのは戦前戦中の日本の遺産は何一つ見えないということでした。
中国も韓国も台湾も、良くも悪くも日本が残した遺産が数多く残っており未だに活用もされています。
しかし、マレーシアで唯一体験した日本遺産は、J氏の母上が話す日本語だけでした。
(シンガポールのタクシーでは嫌な体験をしましたが)
それなのにマレーシアは何故親日国でしょうか?
それは当時の首相マハティール氏が推進した「ルックイースト(東方に学べ)政策」のおかげだと思います。
時の指導者の政策さえよければ、そして時が移れば恨みは小さくなるのだなと感じます。
したがって一部の国に反日思想が残っているのは、反日を政策的に利用した教育がそうさせているのではとも思わざるを得ません。

 暗い話題で申し訳ありません。質問やご意見を歓迎いたします。
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